推しの子に見る月読尊と伊予

最近のアニメ作品に、様々な日本神話の事象がモチーフとして取り入れられている点については、これまで何度もお伝えしその事例を紹介しています。

今回もその分析手法の中で、最近注目されているアニメ「推しの子」から、少し気になる歴史テーマを取り上げたいと思います。

画像1:アニメ「推しの子」
©赤坂アカ×横槍メンゴ/集英社・【推しの子】製作委員会

実は、このタイトル画像にそのサインがしっかり現れているのにお気付きになったでしょうか?

画像2:「の」の字に三日月の
デザイン

この作品、「推し」が「星(ほし)」と語調を重ねていたり、主人公の名字が「星野」であること、また、瞳に描かれた六芒星が特徴的であったりと、とにかく普通に視聴すれば「星」が殊更強調されているように見えます。

しかし、画像2のタイトル文字デザインのように、こっそりと「月」のサインが盛り込まれているのに気付くのです。それは何もタイトル文字だけでなく、次のシーンでも現れているのです。

画像3:主人公に兎(うさぎ)の髪飾り
画像4:YOASOBI「アイドル」公式動画より 
兎のデザインに兎の被り物
https://www.youtube.com/watch?v=ZRtdQ81jPUQ
画像5:満月を模したと思われる
キャラ「ぴえヨン」

日本人であるならば、兎(うさぎ)と聞けば普通に月を連想するでしょう。それが無理なこじつけでないことは、タイトル文字および脇役「ぴえヨン」が象徴するイメージを考慮すれば明らかです。

つまり、ここに登場する少女の主人公は、何か「月」に象徴される歴史上の人物と関連付けされている可能性が極めて高いと考えられるのです。

追記

この記事を投稿した6月15日の晩に放送された第9話でも、やっぱりやってくれました。本当に期待を裏切らないアニメですね。


「有」 → 「十」+「月」→ 十(分)な月 → Full Moon(満月) → ぴえヨン

■かぐや姫と月読尊

一般的に、月と関連付けられている歴史上、あるいは神話・寓話上の女性と問われれば、

 かぐや姫

が最初にあげられるのではないかと思います。

かぐや姫は平安時代の前期に書かれたと言われる「竹取物語」に登場する女性で、竹から生まれ、養父母に育てられ美しく育ち、多くの貴人から求婚されるも、最後には使者の迎えに従い月に帰ると言う、おそらく誰もが耳にしたことのある物語の主人公です。

この「かぐや姫」の物語の成立過程を考察すると、私が調査中の少女神との関係性が見えてくるのですが、ここでは、もう一人の月に関連する(おそらく)女性について取り上げます。

それは、昨年の記事「月読尊 - 隠された少女神」でも触れた月読尊(つくよみのみこと)のことです。

記紀では性別不詳、秀真伝では男性として記述されている月読尊ですが、これはおそらく改竄された記述で、実際は女性であったのではないかとの考察を同記事では述べています。

とにかく、月読尊はその事跡に関する記述が極めて少ないだけでなく、祭神として祀っている神社もあまりなく、いったい生前何をされた人物なのか調べる手掛かりがまるで分からないのです。しかし、その名が記紀にしっかり残されていること、また、天照(あまてらす)素戔嗚(すさのお)と、ナギ・ナミから生まれた3貴子の一人と数えられていることから、その歴史的な存在意義は極めて高かったのではないかと想像されるのです。

■イヨツヒメの示すもの

同上の過去記事では次の様な、秀真伝から引用した系図を掲載しました。

画像5:秀真伝に記されたツキヨミ-イフキヌシの系図

系図の改竄手法の一つに、男女夫婦の出身家を交換するやり方が考えられると「三嶋神と少女神のまとめ」で触れていますが、そうすると、この系図に記述されている男性ツキヨミとは「イヨツヒメ」と同一人物ではなかったのか、つまり、女性ツキヨミとは別名イヨツヒメと呼ばれる姫であったとも考えられるのです。

秀真伝式に「イヨツ」と音だけの表記ではよく分からないのですが、これを漢字で書き直してみると、その意味が見えてきます。もちろん、漢字を当てるパターンは幾つも存在するのですが、その中で私にとって一番しっくりくるのが実は

 伊予津

すなわち、伊予の湊(みなと)という土地を現した名前なのです。

私がこの当て字を強く「推す」のには理由があり、伊予の国と言えば当然ながら現在の四国瀬戸内にある

 愛媛県

を指す旧国名であり、何と言っても県名に「媛を愛する」と姫に関する文字が組み込まれているからなのです。ここに、愛媛県という地名としてはちょっと謎な名称が選ばれた本当の理由があるのかもしれません。

そう言えば、昨年公開された歴史(と呪術の)てんこ盛り映画「すずめの戸締まり」でも、愛媛県の港の地が主人公の来訪地としてしっかり描かれていましたよね。

画像6:映画「すずめの戸締まり」に登場した八幡浜港(愛媛県)
©2022「すずめの戸締まり」製作委員会

どうやら、手掛かりの少ない月読尊について何か情報を得るのに、とにかく愛媛まで出向く必要がありそうです。

■伊予の国で見つけた物

そういう訳で、つい先日、私は愛媛県の松山に向かい、三嶋神と縁の深い大三島と対岸の今治、また、宇和海(うわかい)と呼ばれる豊後水道に面したリアス式の海岸線が続く地域の中から、その中央部に位置する宇和島へと調査に向かったのです。

同地についてはまだまだ不案内で、はっきりとこれという成果は報告できないのですが、ここではその中で一番気になった場所の写真を掲載したいと思います。

画像7:宇和島市内で撮影

これが何を意味をするのか、このブログの過去記事をお読みになった方ならある程度察しが付くかもしれません。今回のテーマが「月読尊」に関するものであることを考え合わせれば、おそらくそうであろうと私は考えているのです。

果たして「推しの子」の隠された主人公アイとは「愛媛」の「愛」のことで、もしかしたら伊予の姫君を指しているのではないのか?伊弉冉(いざなみ)の血を受け継ぐ少女神との関係性がまたしても気になってしまうのです。

 関連記事:
  ・「推しの子」推しの話 
  ・「有馬かな」が語るもの 


つきのくに よるおすくにの いよひめは
うわのしんじゅの ごとくかがやく
管理人 日月土

丹塗矢が流れ着いた庄内

先日、知人が企画した国内ツアーに誘われて、東北は山形、庄内平野の温泉地へと向かうことになりました。

今回ばかりは歴史に関する現地調査からは離れて、数年ぶりに「純粋な旅行」を楽しもうと思ったのですが、結局のところ、そこで目に入ったものが気になり、このように「調査報告」としてレポートすることになってしまいました。

■雨の鳥海山

庄内空港に降り立った時、そこは小雨が降る生憎の天気でした。同行の他のメンバーにはちょっと残念でしたが、むしろ私は、これからのんびりと東北の地で静かな雰囲気を楽しむ好機であると感じたのです。

庄内と言えばやはり平野の北に聳える鳥海山(ちょうかいさん)が見所なのですが、分厚い雨雲がすっかり山を覆い隠しているだけでなく、午後から強くなってきた雨脚が麓に長く留まることを拒みます。山を見られなかったのは残念でしたが、その分、早く宿に向かって身体を休められたのが非常に有難かったです。

画像1:鳥海高原家族旅行村にて撮影
少しだけ山の雪渓が見えています

このブログでは、三嶋や鴨のルーツを扱ってきたので、この山名に含まれる「鳥」の字にはついつい目が行ってしまうのですが、このような天候であったため、今回はそのようないつもの余計な詮索もお休みということで、私も一人得心して旅館のお風呂と食事を楽しんだのです。

■事代主上陸の地

私は、庄内平野にある鶴岡や酒田に関する歴史の予備知識は殆どなかったのですが、宿に1泊した翌朝、今回のツアー企画担当者が、朝食の席で土地の話を次の様に語ったことから、私の脳内エンジンが突然回転を始めてしまったのです。

 ”鶴岡の宮沢海岸に事代主が辿り着いたという伝承がある”

「事代主着岸の地!!」これまでその辺の古代史にいて拙文を書いてきた私にとって、まさにクリーンヒットな話題が降ってきたのです。

そこで、当日の午前中は五重塔で名が知られている鶴岡市の善宝寺を訪ねる予定だったところを、急遽、同着岸の地への視察へと変更してもらったのです。

画像2:宮沢海岸

この日も天気は小雨混じりでしたが、宮沢海岸に着いた一行は、その上陸の地を記念した石碑があるというので、まずそれを探すことにしました。

画像3:椙尾大神神迹贄磯
(すぎのおおおかみしんじゃくにえいそ)の碑

さざれ石風に加工した台座の上にその石碑は立っていたのですが、一行の誰もがその「椙尾大神」を理解できず、この碑が果たして目指していたそれなのか、調べるのに少し時間が掛かりました。

「椙」は「杉」の通俗体字です。椙尾大神については、同海岸の山の裏手に「椙尾神社」という神社が有り、そこの祭神については平凡社の「日本歴史地名大系」では次のように書かれています。

椙尾神社
すぎのおじんじや

馬うま町宮みやの下したの西、加茂かも台地の小丘上の宮みやの腰こしにある。主祭神は積羽八重事代主大神とその后神天津羽羽大神。神職を務めた菅原大和守家の旧記(菅原文書)によると欽明天皇の代に創建され、初めは小物忌こものいみ神社といい北東面野山おものやまにあったが、養老三年(七一九)現在地に移された。

平安時代に竜田彦大神と竜田姫大神、鎌倉時代には大泉おおいずみ庄地頭武藤義郷により鳥海山大物忌大神と月山大神とが勧請されたと伝え、現在は計六柱を合祀する。旧県社。近世には杉尾明神、椙尾山神宮寺じんぐうじ大明神などとよばれ、大山村など近隣の村の産土神であった。

引用元:コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%A4%99%E5%B0%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE-1993779

これによると、どうやら椙尾大神とは次の二神を指すようです。

 積羽八重事代主大神 (男神)
 天津羽羽大神 (女神)

ここで初めて「事代主」の名を目にし、宮沢海岸の石碑が当初の目標地点であることは確認できましたが、平凡社の解説からは「事代主」ではあってもそれが「”八重(ヤヱ)”事代主」であることが窺がわれます。

一般的な神名解釈では、「積羽八重事代主」あるいは「八重事代主」は「事代主」と同一神であると考えられていますが、私は秀真伝の記述から推測して、両者は別人であるとしています。それについての詳しい論考は過去記事「大空のXXと少女神の暗号」をお読みください。

すると、庄内の宮沢海岸に辿り着いたとされる神は

 八重事代主とその后(きさき)

ということになります。

本ブログを長く読まれてきた方なら、この伝承がこれまでの「少女神」に関する一連の流れと接点を持つことに気付かれたことでしょう。前回の記事「三嶋神と少女神のまとめ」で、仮説として私は次の様な女系による王権継承を主軸とした上代天皇の系図を掲載しています。

画像4:女系による王権継承と上代の王
八重事代主は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と同一人物
天津羽羽大神とは玉依姫(たまよりひめ)のことか?

この仮説に従えば、神武天皇の先代天皇である彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊が何らかの理由で皇后と共にこの海岸に流れ着いたとも言えますが、女系による王権継承の解釈では、王は后の元に通う存在であり、この土地が八重事代主が通った場所、すなわち皇后の「玉依姫」の元へ通ってきた場所ではないかとも考えられるのです。

そう言えばこの海岸があるのは「鶴岡」であり、「鶴」の字には「鳥」すなわち「烏(カラス)」との関連が示されているようにも取れますし、内平野を見下ろすあの名山「鳥海山」の中に「鳥(烏)」の字が含まれているのも、何かこの話と関係するのかもしれません。

ここで、少女神に関する何かが繋がり始め、私たち一行は直ちに椙尾大神を祀る椙尾神社へと向かったのですが、そこで見たもの、また感じたその詳細については、次のメルマガの中でご紹介しましょう。

画像5:椙尾神社の鳥居

少女神との繋がりについて、これまであまり深く考えて来なかった東北の地ですが、今回の訪問を経て、今後の調査をどう進めて行くべきか、改めて考え直す時が来たようです。


* * *

平成28年の9月10日(土) から9月12日(月)まで、当時の天皇皇后両陛下(現上皇皇后)はこの鶴岡の地を訪れています。その時滞在されたのが、どうやらこの宮沢海岸にあるホテルのようなのですが、どうしてこの地を選んだのか、今回の記事に絡んで非常に気になるところです。

もしも、画像4の系図が(ある程度)正しいのであれば、八重事代主とは上代皇統のウガヤフキアエズと一致しますから、太古における先代の地として今上天皇がこの地を訪れる理由が成立するのです。

これについて、現地で聞いた両陛下ご滞在時のエピソードなどを交え、メルマガ内でご紹介したいと思います。

画像6:平成28年、鶴岡を訪問された天皇皇后両陛下(当時)
    画像引用元:庄内日報社 https://www.shonai-nippo.co.jp/cgi/ad/day.cgi?p=2016:9:13


いにしへの よきもあしきも はらいませ
いまいでませぬ あすかほあかり
管理人 日月土

三嶋神と少女神のまとめ

これまで、5回ほど三嶋神についてブログ記事を掲載してきました。

 (23.02.28) 名前を消された三嶋 
 (23.03.15) 甲と山の八咫烏 
 (23.03.28) 加茂と三嶋と玉の姫 
 (23.04.15) 書き換えられた上代の系譜 
 (23.04.29) 伊古奈姫と豊玉姫、そして123便 

記載内容がかなりごちゃごちゃしてきたのと、私自身が少し混乱してきたので、ここで一旦、これまで掲載した内容を整理しまとめたいと思います。

■史書の記述をどう読むか

毎回同じことを言わせてもらってますが、私の史書の記述に対する考え方は以下の通りです。

 (1)史書は基本的に暗号文として解釈する
 (2)暗号化された究極の形式が「神話」である
 (3)日本の史書は西暦700年代の編纂期に統一編集(改竄)されている

例えば、自分の記録を残す時、知られたくない事実は通常は完全に伏せるものです。しかし、その中に次世代に継がせるべき大事な情報があった場合、特定の読み人だけに分るよう、ある程度の法則性を以って事実を書き換えることはあり得ます。私は、史書はそのような意図により編纂されたのだろうと想定しており、複数の史書類を比較検討して、まず解読のキーワードは何であるのかを検討します。

このような情報の書き換えを続けていると、様々な点で論理的矛盾や事実関係の齟齬が生まれるのは容易に想像できることであり、その問題をいっぺんに解決する手法が「神話」、すなわち歴史をファンタジー化してしまうことです。おそらく日本神話は、「天皇家の出自」という、日本の国体を象徴する一家族のルーツを、「神の子孫」という超自然的存在と結び付けて曖昧にしているのだろうと考えられるのです。

読者の皆様の中で、「天皇家が神の子孫」だと本気で信じておられる方はどれくらいいらっしゃるのでしょうか?私は別に、日本の国家運営に一定の役割を果たしてきた長い歴史のある一族を貶すつもりは全くないのですが、事実は事実として開示してこそ、その歴史的伝統は担保されるものだと思っています。

そのような史実を丸めて隠す「神の子孫」思想こそが、先の世界大戦で軍事プロパガンダとして利用されたとは言えないでしょうか?

西暦700年代には、古事記、日本書紀が編纂されますが、この編纂過程においては、各家に保管されていた家史が強制的に回収され、これに従わない者は死罪にされたと言います。また同時に、中国大陸の文物が大量に買い占められたという記録もあるようです。つまり、この時期に

 日本の歴史は改竄を受けた

と言って良いのかもしれません。この時の状況を歴史研究家の間では「書紀合わせ」、すなわち日本書紀に見られる古代史の統一見解に沿って、他の史書についても編纂(改竄)が行われたと見ているのです。

■アニメ作品に見る歴史の開示

前節で述べたように、一般に流布している史書の記述が暗号化され改変されているものなら、当然、その事実を知り、これをデコード(暗号解読)している個人や団体がどこかに存在すると考えなければなりません。もしかしたら、正しく史実が記載されている全く別の史書(正史)が残存しているのかもしれません。

このブログの長い読者様なら既にご存知の様に、私は歴史解説ネタに時々アニメ作品を取り上げます。それが何故かと問われるならば、アニメ作品の基本プロットの中に日本古代史が折り込まれていると確認できることがかなりの頻度であるからなのです。

このブログでは、「ダーリン・イン・ザ・フランキス」を皮切りに、スタジオジブリ作品である「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」を古代史を語るテキストとして使って来ました。

画像1:本ブログで取り上げたアニメ作品
アニメ研究ではなく歴史研究ですよ

これらの作品は、どうしてなのか、手元に用意した史書類よりも詳細に当時の人間関係などを表現しているケースが見られるのです。おそらく、これらの作品の考証を担当したスタッフの中に、改竄された記紀などではなく、正史に記述された内容をよくご存じの方がいるのだろうというのが私の予想です。

どうして、隠蔽された史実を劇作品の中にわざわざ取り入れるのかは重要な問題でありますが、それについての考察はここでは控えます。私は、史書類のデコードだけではなく、これらの作品に密かに埋め込まれた古代史実の分析結果をも資料として利用していることは予めご了承ください。

■「少女神」という概念

「少女神」という言葉の意味は、その概念を最初に取り上げた過去記事「少女神の系譜と日本の王」を読んで頂きたいのですが、正直に言って、「みシまる 湟耳」さん著の書籍「少女神 ヤタガラスの娘」からの借用です。

ものすごく簡単に説明するなら、古代天皇家は、特殊な能力を持つ少女(少女神)の元へ婿入りできた男性が王権を得ていたのではないか、そして、その少女を輩出する家系こそが、三嶋であり八咫烏(ヤタガラス)なのではないかと論説しています。

もうお分かりのように、三嶋神に関するこれまでの分析も、この「少女神」の概念を切り口に行ってきたのです。

日本神話に登場する神々の名前が、実はある歴史上の特定人物を幾つかの変名に置き換え(一体分身)たものであることは、私でなくても多くの歴史研究家が既に気付いていることだとは思いますが、その場合、個々の史実についてはそれで説明ができても、血脈を辿るとどうも上手く行かない、むしろ混乱の度合いが深まるケースが多かったのではないかと思います。

しかし、これらをこれまで一般的であった男系による王権継承から、女系による王権継承(少女神の血統)に置き換えると、全体の見通しがたいへんシンプルになることに気付くのです。

■女系による三嶋神の系譜

さて、能書きが長くなってしまいましたが、これまでの三嶋神に関する考察を、少女神による女系継承に置き換えるとどうなるかを、一つの系図として作成してみました。

この図は、女系の血筋を中心に、それぞれの代の女王に男性王が婿入りするという体裁で描かれています。

画像1:女系による王権継承と上代の王

男性王の出身家は記紀で后(きさき)が出た家とされているものと置き換えています。おそらく史書編纂者が採用しただろう改竄手段の逆を行っていると考えてください。

 木花開耶姫(大山祇の娘) → 瓊瓊杵尊(大山祇の息子)
 媛蹈鞴五十鈴媛(大物主の娘) → 神武天皇(大物主の息子)

彦火火出見尊の場合は、その変名である三嶋湟咋と並列に置かれることの多い大山祇の家系と仮定します。また、鸕鷀草葺不合尊の場合は、変名に大物主とあるので、大物主の家系としました。

さて、この図を見てどう思われるでしょうか?少なくとも、

 上代天皇は血が繋がっていない

ことがお分かりでしょう。要するに、男性王の出身家は女王に対して外戚となる関係なのです。しかも、この4代に亘る短い系図の中に、既に2つの外戚家系が入り込んでいるのです。

もちろん、この図は少女神仮説を元に作成しているのですが、この系図を用いることで以下の議論がずい分と説明し易くなったことにお気付きになったでしょうか?

 ・天皇(男性)の出自に関する諸議論
 ・魏志倭人伝に記述された女王国

よく、「〇〇天皇は△△出身だった!」とセンセーショナルな歴史議論がなされることがありますが、そもそも、男に王の継承権がないのであれば、どこの出身地かはそれほど大きな問題とはならないのです。

また、魏志倭人伝が記述する「女王国」という古代王国の捉え方は全く異質であるどころか、むしろその通りだというこになるのです。

さて、これが正しいとするならば、次に大きな問題が控えています。

 ・大山祇とは何者なのか?
 ・大山祇と三嶋、そして八咫烏との関係は?
 ・天皇家はいつから男系継承となったのか?

果たして、女系継承が突然男性継承に変わることがあるのだろうか?あるいは巧妙に男系継承に置き換えているだけなのか?ならば、天皇を名乗る外戚家はいったいどこからやって来た何者なのか?

実は、現在の皇室に直結する極めて重要な問題を孕んでいるのです。


管理人 日月土

伊古奈姫と豊玉姫、そして123便

今回の記事を読み進める前に、まず次の写真を見て頂きたいと思います。

画像1:123便内から地上を見た写真

以前から(新)日本の黒い霧ブログを読まれてきた方なら、一目でこの写真が何かお分かりになったかと思います。これは、1985年8月12日、羽田空港から大坂伊丹空港に向けて飛んだ日本航空123便の機内で撮られた写真です。

撮影場所についてはメディアで様々言われていますが、私の行った現地調査の結果では、これは

 東に向かう高度600~1000mの低高度から
 伊豆半島東岸の白浜海岸付近を撮影したもの

と結論が出ています。

方角については、この撮影者とその家族が機体の後方右寄りに着座していたこと。高度については、窓から見える地上の景観から数学的に計算して割り出したものです。

一般には、この写真は「高度4000m以上の高度から相模湾を見下ろしたもの」とされていますが、その説明が間違いであることは、この写真が窓枠の少し手前から撮影したものにも拘わらず、窓の中央部まで地上の景色が写り込んでいることから分かります。

4000mの高度では、窓から下を覗き込まないと地上の景色は見えません。それは普段飛行機を利用している方なら直ぐに確認できるはずです。

要するに、123便は相模湾上空をかなり低い高度で東に向かって飛んでいたことになります。その事実は、公表されているボイスレコーダー(CVR)やフライトレコーダー(CFR)では全く確認できないのです。つまり、

 CVRもCFRも本事件解明の資料とは成り得ない

有体に言えば、どちらも改竄された上で公開されているという結論になり、私がこれらの公的資料を一切用いないのもその点に起因するのです。

これらの調査の経緯については(新)ブログ記事「折れなかった垂直尾翼(1)」を読んで頂きたいと思います。

■写真に写ったもの

画像1の写真を見てまず目につくのは、2番の橙〇で囲んだ黒い物体です。ぼやけていて色も形もはっきりしていませんが、おそらく撮影者もこれが気になって撮影したのだと思われます。

これについては、私もかつては「戦闘機なのでは?」と仮説を提示しましたが、その後、専門家による画像分析でオレンジ色の発光が確認できたと週刊誌で報じられました。

それに続き、これが航空機なのかミサイルなのか、はたまたUFOなのではないかと、とかく議論の的になりますが、今回は歴史ブログの記事なのでこの物体には注目しません。

私が今回注目するのは1番の赤〇で囲んだ部分なのです。ここに何があるのか、読者の皆様はお分かりになるでしょうか?斯く言う私もその存在が気になりだしたのは最近のことなのです。

画像2:伊古奈比咩(いこなひめ)神社本殿

下田市白浜海岸の中間部に、相模湾に突き出した小丘陵があるのですが、この伊古奈姫神社は丘陵の麓に本殿、そして境内の階段を昇った頂上部には樹木に囲まれた奥宮が鎮座します。

画像3:伊古奈比咩神社奥宮

さて、これだけだと、写真のフレームに収まったただの神社という話で終わってしまうのですが、肝心なのはその「伊古奈姫」というお姫様の正体なのです。

■三嶋神の后(きさき)

伊豆半島に三嶋(三島)神社が多いことは、過去記事「名前を消された三嶋」でお伝えしましたが、この神社、名前こそ「伊古奈姫」と女性の名前を冠していますが、実は同じく三嶋神を祀る神社の一つなのです。

画像4:祭神の案内板

では、伊古奈姫とは誰なのか、そして三嶋神(三嶋湟咋:みしまみぞくひ)との関係は?実はそれについて昭和初期に書かれた研究書が同社のホームページに掲載されているので、それを読んでみることにしましょう。なお、漢字は基本的に旧字体ですが、フォントの存在していない異体字については現代漢字に置き換えています。

(イ)伊古奈比咩命に就いて

 本社の主神が伊古奈比咩命にましますことは、既に述べた如く祭神の御名をそのまま社名とする延喜式の記載からでも容易に首肯することが出來るが、然らばその神名並に神格等に就いては如何であらうか。

【古典其他に見える神名】 現神名の顯はれた記事は、日本後紀 (釋日本紀十五所引)淳和天皇天長九年五月二十二日 (癸丑)の條に

 伊豆國言上、三嶋神、伊古奈比咩神二神預名神

とあるを初見とする、爾後文德實錄嘉祥三年十月八日 (壬子)の條を始め、同十一月一日(甲戌)、仁壽二年十二月十五日(丙子)、齊衡元年六月廿六日 (己卯)の各條に見え、その都度神位の加叙が行はれてゐる。次いで延喜の制伊豆國賀茂郡四十六座中の一に記載せられ、降って江戸時代の初期慶長十二年大久保長安奉納の鰐口にも「白濱伊古奈比咩命大明神」とき刻記せられてゐる。

【神格と神系】 上述の如く正史古典に嚴然たる御名を遺させ給ふ大神にましますのであるが、その神格と神系については、古典に記す所尠く、僅かに左の數點を拜するに過ぎない。先づ神格については前記日本後紀逸文中天長九年の條に

  令卜筮亢旱於内裏、伊豆國神爲祟

次で伊豆國より言上して三嶋神・伊古奈比咩神の二神を名神に預るとあるから、此處に言ふ伊豆神は卽ちこの二神にましますことが知り得られ、且つ亢旱を祈って驗あることが推察されるが、更に同文に次で次の一條が記載される。(以下略)

引用元: 伊古奈比咩命神社公式ホームページより

この文献を読み進めると、後段に伊古奈姫 が

 三嶋神の後后

を指すとの記述が見られます。

後后とは二番目の后という意味ですから、当然正妻に該当する本后も存在し、同文献には本后(阿波姫:あわひめ)とその娘(物忌名姫:ものいみなひめ)の名前も記されています。但し、官位を先に授かったのが後后の伊古奈姫だったため、二人は怒って祟ったとの伝承が残されています。

本后と後后、ここに、以前から話題にしている

 双子の皇后 あるいは 二人の皇后

という、少女神とはまた別の、女系史に関する重要テーマが含まれていることに気付かされます。

画像5:このアニメも同テーマを扱ったものか?
©田中靖規/集英社・サマータイムレンダ製作委員会

三嶋系の神社は、大抵は男神「三嶋神」を表に出しますが、どうしてこの神社では后の名を用いるのでしょう?この文献を読むと、祭神五柱の内、主祭神は伊古奈姫と三嶋神ですが、三嶋神については説が定まらず、筆頭の主祭神は「伊古奈姫」であると断じているのです。

■三嶋湟咋の后と豊玉姫

ここで前回の記事「書き換えられた上代の系譜」の画像1を見てみます。これら同一家系の変化と思われる系図の中では、三嶋湟咋(=賀茂建角身)の后の名が不明でした。

画像6:三嶋湟咋の后の名が不明

ここで、この研究書の結論を適用すれば

 ① = ①’ = ①” = 伊古奈姫

と置き換えることが可能です。

ところが、男系継承で記載されている日本書紀と比較すると、ちょっと訳の分からない感じになります。

画像7:日本書紀との比較

これをどう解釈したらよいのか?私は日本書紀の記述は

 後に男系化された古代王朝の系譜

と考えられるので、ここは女系解釈に沿って

 伊古奈姫 = 豊玉姫
 三嶋湟咋 = 彦火火出見

と置き換えが可能であろうと見ています。これを私は「一体分身」の原則と捉えており、これまで他の例でも見てきたように、個人の功績や職名、諱(いみな)などそれぞれに別の名前を用い、まるで複数人が存在していたかのように史実を攪乱し捏造する、史書編集者の常套手段ではないかと見ているのです。

しかも、この混乱した話を神話(ファンタジー)としてしまえば、後世の読者は話の辻褄について事実関係を訴求する意欲を大いに削がれるばかりか、現代の神道のようにあたかも神話の神々が実在するかのように勘違いするかもしれません。

このように暗号化された史書を読み解くには、史書編集者がどのような改変手法・暗号化手法を適用したのか、それを見抜かなければなりません。そして、何故そんなことをしてまで史実を隠そうとしたのか(あるいは逆説的に事実を残そうとしたのか)、その意図を探るのもまた重要なテーマとなるのです。

さて、

 天皇の祖先が三嶋湟咋?

これがいったい何を意味するのか、今後、より深く見て行きたいと思います。


* * *

今回の記事冒頭では、123便事件を取り上げましたが、そもそも歴史研究を始めたのが、同事件発生の大きな理由に古代から現代まで横たわる何か大きな社会的構造の歪みが関わっているからだろうと見立てたからなのです。

その歴史的追及が直接この事件の現場と関わってきたことに、何か偶然でないものを感じてなりません。これまでの調査から、123便事件の背景には、昭和天皇と美智子妃殿下(当時)の存在が非常に大きいだろうとしてきましたが、ここにきて、およそ2000年の時を超え、古代と現代の天皇、そして后の関係が繋がってきたように感じるのです。


管理人 日月土

書き換えられた上代の系譜

先月京都の久我神社を訪れ、その時得た着想を元に賀茂と三嶋について考察を加えてきましたが、ここではこれまでの話を一旦整理してみたいと思います。

 関連記事:
  ・甲と山の八咫烏 (‘23.3.15)
  ・加茂と三嶋と玉の姫 (‘23.3.28) 

賀茂は「鴨」であり、三嶋には「嶋」の字が含まれます。どちらの文字にも「烏」(カラス)が含まれることから、ここで既に共通性が見られます。

三嶋湟咋(みしまみそくひ)の孫娘が我が国の皇室の租とされている「神武天皇」の后(きさき)になっているのは、各史書における共通の認識の様ですが、ここで、神武天皇の父の名「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけうがやふきあわせずのみこと)の中に「鸕鷀」(う)の字、すなわち「烏」の文字が含まれている事に気付きます。

以上の事実を踏まえ、三嶋湟咋(みしまみそくひ)とその家系、また神武天皇のと関係を、山城国風土記・秀真伝・古事記、そして日本書紀とに分け、それぞれ系図として書き出してみたいと思います。以下、文字が小さく表示されると思うので拡大してご覧になってください。

画像1:鴨・三嶋・鸕鷀、3つの烏(からす)とその系図

この系図を見てどう思われるでしょうか?各史書毎に記述はバラバラに見えますが、一部同じ名が現れていたりと、やはり共通している点も見受けられます。

左側3つの系図の比較から、私は「賀茂」と「三嶋」は元々同じ家を指していたのだろうと結論付けたのです。そして、この3系図は女系の血縁関係を表しており、その繋がりは図中に引いたピンク色のラインで示されています。

一方、右端の日本書紀を元に描いた系図は、神武天皇に至る男系による血の繋がりを表しており、それを青色のラインでトレースしています。

明らかに、賀茂・三嶋はヒメタタライスズヒメなる皇后を輩出した女系の家系であり、そこには共通の「烏」の字も見られるのですが、困ったことに、男系の彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊にも「烏」の文字が使われているだけでなく、山城国風土記に女系の姫として登場した「玉依姫」が。今度は男系王の后、神武天皇の母としてその名が記されているのです。

 これはいったいどういうことなのか?

この疑問への答になるかどうか分かりませんが、日本書紀の中には、画像1に登場する神武天皇の祖父、彦火火出見尊が、約束を破られたことに怒って竜宮城に帰って行こうとする后の豊玉姫に次の様な歌を詠んでいます

 おきつとり かもづくしまに わがゐねし いもはわすらじ よのことごとも
 (沖つ鳥 鴨著く嶋に 我が率寝し 妹は忘らじ 世の尽も)

岩波文庫 日本書紀 巻第二

表面上の訳は「鴨が着く島で、私が添い寝した少女のことが忘れられない。わたしが生きている限り」という情緒たっぷりの歌なのですが、この歌には大事な文字が含まれているのにもう気付かれたでしょうか?

「沖つ鳥」とはそもそも「鴨」を指す枕詞でもありますし、この歌にはあからさまに「鴨」と「嶋」の文字が同時に使われているのです。それに加え豊玉姫の生み残した子の名に「鸕鷀」(う)と、ご丁寧にも「烏」の文字が二つも含まれているという具合なのですから、何とも出来過ぎた話なのです。

以前から述べているように、私は記紀などの史書は高度に暗号化されている書物と見ており、そのまま文字通り読んでは歴史書として使い物にならないと感じています。ですから、当然この歌には史実解読のヒントが含まれていると考えられるのです。

ここで重要となるのは、「鴨」と「嶋」、そして両者を指すであろう「鸕鷀」に共通する文字、「烏」(カラス)であり、また「妹」(少女)であると考えられます。すなわち、私がこれまでテーマにしてきた

 ヤタガラスの娘(少女神)

を強く指し示していると捉えるのが妥当であると考えられます。そして、それがいったい何を意味しているのか?それは画像1の系図のバリエーションをよく見れば自ずから気付くはずです。

 皇位の正当性は「烏」の一族、すなわち女系にある

端的に言えば、一般的に認識されている

 彦火火出見 - 鸕鷀草葺不合 - 神武

と続く男系による皇位継承は、実は血の繋がった継承ではなく、鴨・嶋(=鳥)なる少女神の下へ男が入る(率寝る)ことで、その皇位、王としての権限が保証されることを示しているのだろうと考えられるのです。

要するに、日本書紀に詠まれたこの歌は、

 日本の皇統史は女系から男系に書き換えられている

という事実を後代の読者にこっそり伝えているのだと読めるのです。


* * *

今回の考察は、天皇は神の子孫であり、天皇家は万世一系で、2000年以上脈々と続く世界でも稀有な存在であると信じている方々には少々刺激が強いかもしれません。しかし、男系天皇が虚実であったとしても、女系として引き継がれたこの国の尊厳は何も傷つくことはないであろうと私は信じています。

それよりも、日本人(にほんじん)として祖国の成立史を夢見がちに理解することが本当に正しい姿勢なのか、そこを良く考えて頂きたいと私は思うのです。

今後は、古代日本がおそらく女系王権の国だったであろうという前提で、より深くこの国の成立史を読み解いて行く予定です。


管理人 日月土

加茂と三嶋と玉の姫

※今回の記事は、3月20日に掲載したメルマガ購読者限定記事「加茂と三嶋の考察」に新たな考察を加筆したものです。

まず、前回の記事「甲と山の八咫烏」のまとめを箇条書にします。

  • 京都の代表的な神社、上賀茂/下賀茂神社の主祭神について記紀に記載がない
  • 賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)は八咫烏(やたがらす)と同一視される
  • 賀茂/加茂/鴨はどれも同じ「カモ」を指し表記が異なるだけではないか
  • 「鴨」の字は甲(きのえ)と鳥(からす)に分解され、八咫烏を現す符丁なのでは

そして、記事の最後に、同じ符丁が使われているとするなら、「三嶋」(みしま)はどのように読めるのかと、読者の皆様に問い掛けをして終わっています。

今回はその答について、私の考察を述べたものになります。

■賀茂一族は三嶋一族である

もうお気付きのように、「三嶋」の「嶋」の字が「山」と「烏」に分けられることから、賀茂一族同様、三嶋一族も八咫烏との関連性が同じ符丁で隠されているのだろうと考えたのです。

ここで、前回提示した賀茂一族の始祖、賀茂建角身命から始まる3代の系譜と、三嶋一族の始祖、三島溝橛(みしまみそくひ)から始まる3代の系譜を以下に比較してみることにします。

なお、賀茂の系譜は山城国風土記内の表記、また三嶋の系譜は秀真伝内の表記(ヲシテ文字→カタカナ)とします。史書文献によって表記文字がずい分と変わりますのでご注意下さい。基本的に音(読み)を軸に理解すると混乱は少ないと思います。


画像1:鴨(賀茂)と嶋(三嶋)の系図の比較

どうでしょうか。この図を見る限り、3代に渡る系図が両家共2代目の玉依姫、あるいは玉櫛姫を中心に同じように結ばれているのが見て取れます。それは単純に「そう見える」というだけの話ではありますが、ここに「烏」の文字の共通性を考慮すると、ただ同じように見えるだけでは済まないだろうという予感が湧いてくるのです。

ここで新たに注目しなくてはならないのが、古事記に書かれている以下の記述です。少々長目ですが、現代語訳を付けるのでその文意をよく読んでみてください。

 かれ、日向(ひむか)に坐(いま)しし時、阿多の小椅君(をばしのきみ)の妹(いも)、名は阿比良比売(あひらひめ)を娶して生みし子、多芸志美美命(たぎしみみのみこと)、次に岐須美美命(きすみみのみこと)、二柱坐しき。

 然れども更に大后(おおきさき)とせむ美人(をとめ)を求(ま)ぎたまひし時、大久女命(おおくめのみこと)白さく、「ここに媛女(をとめ)あり。こを神の御子といふ。その神の御子といふ所以(ゆゑ)は、三島湟咋(みしまみぞくひ)の女(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿麗美(かたちうるは)しかりき。かれ、美和(みわ)の大物主神(おおものぬしのかみ)見感(みめ)でて、その美人(をとめ)の大便(くそ)まる時に、丹塗矢に化(な)りてその大便まる溝(みぞ)より流れ下りて、その美人のほとを突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。

 すなはちその矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りぬ。即ちその美人を娶(めと)して生みし子、名は富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすけひめのみこと)と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と謂ふ。 こはそのほとといふ事を悪みてヽ後に名を改めつるぞ。 かれ、ここを以ちて神の御子といふなり」とまをしき。

岩波文庫 古事記(中) 神武天皇より

また、上原文の現代語訳は以下になります。

 さて、イハレビコノ命が日向におられたときに、阿多の小椅君の妹のアヒラヒメという名の女性と結婚してお生みになった子に、タギシミミノ命とキスミミノ命の二柱がおられた。

 けれどもさらに皇后とする少女をさがし求められたとき、オホクメノ命が申すには、「ここによい少女がおります。この少女を神の御子と伝えています。神の御子というわけは、三島のミソクヒの娘に、セヤダタラヒメという名の容姿の美しい少女がありました。それで三輪のオホモノヌシノ神が、この少女を見て気に入って、その少女が大便をするとき、丹塗りの矢と化して、その大便をする厠の溝を流れ下って、その少女の陰部を突きました。そこでその少女が驚いて、走り回りあわてふためきました。

 そしてその矢を持って来て、床のそばに置きますと、矢はたちまちりっぱな男性に変わって、やがてその少女と結婚して生んだ子の名を、ホトタタライススキヒメノ命といい、またの名をヒメタタライスケヨリヒメといいます。(これはその「ほと」ということばをきらつて、後に改めた名である。)こういうわけで神の御子と申すのです」と申し上げた。

岩波文庫 古事記(中) 神武天皇より現代語訳

ここに書かれているのは、神武天皇の新たなお后選びに大久女命が推した娘、それが 「神の御子」 と呼ばれている娘であり、何故そう呼ばれるのかその言われを大久女命が神武天皇に説明しているシーンです。

大物主(おおものぬし)神が丹塗矢に化けて現れ、 三島湟咋(三嶋)の娘を孕ませて生まれた子(*1)、それが 神の御子ヒメタタライスケヨリヒメ、日本書紀で表記するところの「媛蹈鞴五十鈴媛」(ひめたたらいすずひめ)となります。

*註1:丹塗矢が男性器を象徴しているのはもはや説明するまでもないでしょう

画像2:古事記における三島湟咋の系譜
上の画像と比較してみてください

ここに登場する三島湟咋(三嶋)の娘の名前「勢夜陀多良比売」は、上画像1の山城風土記・秀真伝に出て来る名前(玉依姫/タマクシヒメ)とは全く異なりますが、なぜか

 ・丹塗矢に孕ませられる(山城国風土記)
 ・大物主神と結ばれる(秀真伝)

と、画像1で示した両家の系譜に対してそれぞれ記述の共通性を併せ持っているのです(*2)。

*註2:秀真伝におけるヤヱコトシロヌシは大物主皇統の継承者ではありませんが、上の系図を見れば分かるように、歴代大物主の血筋であることは明白です。

ここまで来るとあまりにも話が出来過ぎであり、これら記述の微妙な共通点と差異の存在は、まさに史書編纂における共通した符丁のようなものの存在を示していると考えられるのです。

もしもこれが符丁であるならば、一つの歴史的事実に対し史書それぞれに異なる変名が使われ、同時にそれに合わせた別の物語が紐付けられているのではないかという推測が成り立つのです。しかも、「烏」や「丹塗矢」などという暗示性の強い言葉(記号)が使われているのを鑑みれば、その可能性は極めて高いだろうと断言できるのです。

これら系図の比較から私は次の仮説を提示したいと思います。

 賀茂と三嶋は同じ家を指す

つまり、カモ(賀茂/加茂/鴨)とミシマ(三嶋/三島)に違いはなく、ある一つの家内に起きた歴史的事実を、名前をそっくり変えて別の物語とし史書に残したのだろう、そう考えるのです。

どうしてそんな面倒なことをしなければならなかったのか?そうなのです、考えるべきはむしろそちらの理由の方なのです。

■もう一人の玉依姫

京都の下賀茂神社に祀られている「玉依姫」ですが、日本神話に詳しい方ならご存知のように、この方は神話の中で非常に重要な役回りを担っているのです。日本書紀から該当する原文をここに示します。

彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあへずのみこと)、其の姨(をば)玉依姫を以て妃(みめ)としたまふ。彦五瀬命(ひこいつせのみこと)を生(な)しませり。次に稲飯命(いなひのみこと)。次に三毛入野命(みけいりのみこと)。次に神日本磐余彦尊(かむやまといはれびこのみこと)。凡(すべて)て四(よはしら)の男(ひこみこ)を生(な)す。久しくましまして彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、西洲(にしのくに)の宮に崩(かむあがり)りましぬ。因りて日向(ひむか)の吾平山上陵(あひらやまのうえのみささぎ)に葬(はぶ)りまつる。

岩波文庫 日本書紀 巻第二 神代下より

神日本磐余彦尊とは神武天皇のことであり、ここで玉依姫は神武天皇の母として登場しています。画像1に出て来る玉依姫が玉櫛姫と同一人物なら、また画像2の勢夜陀多良比売と同一人物なら、義理ではあっても二人の母息子関係は共通することになります。少なくとも同記述が指している世代は同じであると指摘できるでしょう。

ここに奇妙な共通性が垣間見れる訳ですが、何と言っても気になるのは、玉依姫の夫となった彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、すなわち神武天皇の父の名前なのです。「鸕鷀」は「う」と読み、主に海鵜を指す古語だとのこと。この名には「鳥」の文字が含まれているだけでなく、鵜とは黒い羽に覆われた、まさに鳥(からす)のような鳥(とり)であり、ここにも他の史書に見られた不思議な共通項が認められるのです。

画像3:海鵜

天皇家を中心とする日本国史において、その国父として崇敬される神武天皇ですが、その皇后・母を巡る史書の記述がここまで乱れながらも何やら同じ事柄を示さんとしている理由とはいったい何なのか?

この謎を解明する鍵となるのが、おそらく皇后たるべき特殊な女系の血を継承する少女神たち、すなわち

 ヤタガラスの娘たち

であると私は考えるのです。


* * *

画像1,2に登場する①、①’または①”のおそらく同一人物と考えられる未詳の女性ですが、読者の皆様はこの方が一体誰だと思われるでしょうか?残念ながら記紀や秀真伝を端から端まで眺めても名前は出て来ません。

ある意味、史書から完全にその名前を消された女性だとも言えます。しかし、この方の素性を知る手掛かりが伊豆半島にありました。次のメルマガではこの方について少し語ってみたいと思います。


沖つ鳥夜の水面に浮かぶるは黒き鴨よと人は言うらむ
管理人 日月土

甲と山の八咫烏

今月初旬、琵琶湖周辺の調査へ向かい、その足で短い時間ですが京都市内にも立ち寄りました。その時、京都駅にも近い六角堂に立ち寄った時の状況については、(新)ブログ記事「京の知られざる観光地」で触れています。

六角堂を訪れたその前、私が向かった先が京都の北区にある「久我神社」(くがじんじゃ)なのです。北区の神社と言えば、それこそ賀茂川のほとりに佇む上賀茂神社が有名で、訪れる方も多いと思うのですが、今回。敢えてこの神社を目指して向かったのには訳があります。

画像1:京都北区の久我神社

それは、京都の南北を結ぶ幾筋もの通りの中で、特に「大宮通」と名付けられた、おそらく神社に関連付けられただろう古い通りの名前が気になり、その北側の終端がどこで終わっているのかを調べたところ、確かに上賀茂神社のすぐ西側で終わってはいるものの、同社と大宮通の間は賀茂川が遮っており、大宮通の終端部から上賀茂神社へ向かうには、一旦賀茂川沿いを南下し、御薗橋(みそのはし)を渡らなければなりません。

画像2:大宮通北端周辺と久我神社

要するに、現在の区割りからは上賀茂神社へと続く通りとは考えにくく、それではどうして「大宮」と名付けられたのか疑問だったのです。これについてWikipediaの「大宮通」では、その名前の由来を次の様に記述しています。

「大宮」は皇居を示す語で、「大内裏の東側に接していたため」との見方が一般的である。ちなみに、大内裏の西側に接していた通りを「西大宮大路」といった。

しかし、大徳寺通(旧大宮通)を経た北区紫竹下竹殿町にある、式内社「久我神社」周辺の地は、かつて大宮郷と呼ばれていた。ここは賀茂氏が京都盆地に最初に居を定めた場所とされ、上賀茂神社の旧地との説も残っている(上賀茂神社から賀茂川右岸側への渡しは、かつて「大宮の渡し」と呼ばれた)。

つまり、「大宮」という名称そのものは平安京の建設前から存在しており、大宮通、ひいては平安京の「大宮大路」命名の由来となったとしても不都合はない。むしろ、平安京建設時の基準線となった可能性さえも否定できない。

引用1:大宮通 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E9%80%9A

ここから、本来の歴史的重要地点は大宮通の北端周辺にあるのだろうと、かつての「大宮(皇居)」、あるいは「上賀茂神社の旧地」の姿を偲ぶには、まず神社として現在も形を残している「久我神社」を訪れるべきだろうと考えたのです。

■久我神社と賀茂建角身命

画像1をご覧になればお分かりの様に、久我神社は京の閑静な住宅・商店街の中に静かに佇む、檜皮葺の京都らしい美しい神社です。正直なところ、京都市内では良く見られる光景であり、現在観察できる様式から古い歴史的痕跡を追うのはちょっと難しそうです。

ここは素直にWikipediaさんの記述を拝借してみましょう。注目するのはやはりその主祭神についての部分です。

祭神は次の1柱。

 賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)

賀茂県主(賀茂氏)の祖神。上賀茂神社祭神の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたり、神武天皇の東征で先導した八咫烏(やたがらす)と同一視される。

古くより社名を「氏神社」を称することから、祭神は賀茂氏祖先神の賀茂建角身命とされるが、上賀茂神社文書によれば近世には国常立尊等の異説も存在した。

引用2:久我神社 (京都市北区) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%8C%97%E5%8C%BA)

ここで、「賀茂建角身命」という神名が登場しましたが、当然あの有名な上賀茂神社と下賀茂神社、正式名で言う「賀茂別雷神社」(かもわけいかづちじんじゃ)と「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)と当然無縁ではありません。

それでは、上下賀茂社の主祭神についても見てみましょう

 賀茂別雷神社(上賀茂):
  賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
   
 賀茂御祖神社(下賀茂):
  東殿 – 玉依姫命(たまよりひめのみこと)
  西殿 – 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

以上の主祭神の血縁関係を系図に整理すると次の様になります。

画像3:賀茂家始祖の系譜

上系譜で「丹塗矢?」としたのは、Wikiに掲載されている次の解説に因るもので、すなわち不詳と言う意味となります。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。

引用3:賀茂別雷神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE#%E6%91%82%E6%9C%AB%E7%A4%BE

この賀茂一族の始祖とされる神様たちなのですが、なんと日本書紀や古事記には登場しないのです。しかし、現地に残る神社を眺める限り、現在でも非常に大事にされているのが分かりますし、下賀茂神社の「葵祭」(あおいまつり)が、全国的にも有名な京都のお祭であることは皆様も既にご存知でしょう。

画像4:上賀茂神社(左)と下賀茂神社(右)

奈良時代以前から朝廷による厚い崇敬を受けたとされる賀茂一族始祖のお宮、それがどうして日本の代表的史書と呼ばれる記紀に登場しないのか、思えばこれは非常に不思議な事でもあります。

■甲の烏(カラス)

ここで、上記引用2の記述を再度見てみます。そこには「神武天皇の東征で先導した八咫烏(やたがらす)と同一視される」とあり、その根拠は書かれていないものの、単なる推測の一つと捨て置くには、余りにも重要な一文であると私は捉えます。

日本書紀において、八咫烏は次の各シーンで登場します。

【八咫烏派遣の夢のお告げ】
時に夜夢みらく、天照大神、天皇に訓(をし)へまつりて日はく、「朕今(あれいま)頭八咫鳥(やたのからす)を遣す。以て郷導(くにぐにのみちびき)としたまヘ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔び降る。天皇の日はく、「此の烏の来ること、自づから祥(よ)き夢に叶えり。

【兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)召喚の使い】
十有一月(しもつき)の癸亥(みづのとゐ)の朔己已(ついたちつちのとみのひ)に、皇師(みいくさ)大きに挙(こぞ)りて、磯城彦(しきひこ)を攻めむとす。先づ使者を遣して、兄磯城を徴(め)さしむ。兄磯城命(おほみこと)を承けず。更に、頭八咫烏を遣して召す。時に、烏其の営に到りて鳴きて日はく、「天神(あまつかみ)の子、汝(いまし)を召す。率(いざ)わ、率わ」といふ。

【行賞に預かる八咫烏】
又、頭八咫烏、亦賞の例に入る。

引用4:岩波文庫 日本書紀巻第三 神武記より

また、八咫烏は一般的に同巻に登場する次の金鵄(きんし)と同一視するのが一般的なようです。

【長髄彦(ながすねひこ)との戦いに金鵄現る】
十有二月(しはす)の癸已(みづのとみ)の朔丙申(ついたちひのえさるのひ)に、皇師(みいくさ)遂に長髄彦を撃つ。連(しきり)に戦ひて取勝(か)つこと能はず。時に忽然(たちまち)にして天陰(ひし)けて雨氷ふる。乃ち色の霊(あや)しき(とび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。其の鵄光り嘩煜(てりかがや)きて、状流電(かたちいなびかり)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひとども)、皆迷ひ眩(まぎ)えて、復力(またきは)め戦はず。

引用5:岩波文庫 日本書紀巻第三 神武記より

引用4にあるように、八咫烏は神武天皇から論功行賞を授かっていることから、実際には鳥(カラス)などという動物的象徴ではなく、東征において功績が認められた、実在した人物であると見るのが正しいのでしょう。

現在の京都において、賀茂一族の始祖が非常に大事にされている事実に反して、その人物の名が記紀に全く記載されていないというのも考えにくいことであり、やはりここは

 賀茂建角身命=八咫烏

と捉えて良いのではないかと私は考えます。問題なのは何故このような名前の書き換えを行ったのかというその点なのです。

加えて、記紀などの史書類を暗号の書と捉えている立場としては、「賀茂」(かも)という言葉の用法にも大きな意味があると予想するのです。

京都市内には、「下鴨梅ノ木町」や「加茂町青柳」、「上賀茂葵田町」といった町名がある様に、「カモ」の地名表示に使用される漢字が不統一だという事実があります。これは漢字表記に意味が無いとも言えると同時に、どの字を当てても構わないことを意味していると考えられます。

ここで、画像1の写真に見られる、提灯にデザインされている神紋の「二葉葵」の意味が重要になってきます。水草の「葵」(あおい)の葉が示すのは、上賀茂神社ホームページの解説では「あふひ=逢ふ霊」、すなわち神との出会いを意味しているのだと説明されています。

画像5:久我神社の提灯に描かれた神紋「二葉葵」

これはこれで非常に美しい説明なのですが、私はもっと直接的に、この紋が意図するのは水鳥が啄ばむ草、あるいは葵が群生する水辺にかならず居る鳥という意味であり、すなわち鳥類の「鴨」を指していると見るのです。

もうお気付きの様に、「鴨」の字は「甲」(かぶと)と「烏」(からす)の二字に分解されることから、

 鳥辺の一字は八咫烏の血筋を表す符丁

と考えられ、すると別の漢字を当てた「賀茂」や「加茂」についても、当て字自由の原則から同じく八咫烏の系統であるとみなせるのです。

この考え方を以ってすれば、日本書紀に記述された「鵄」(とび)についても同字に「烏」(からす)の文字が見られることから、

 金鵄=八咫烏

と見なしても解釈上の問題はなくなることになります。

さて、ここまでクドクドと細かい考察を続けてきましたが、これにどのような意図があったのかもうお気付きでしょうか?それはまさに前回記事「名前を消された三嶋」で尻切れトンボに終わってしまった「三嶋」のルーツを探求する為のものであったのです。

 三嶋

この字を見ればもうお分かりですよね?



烏なぜ鳴くの烏は山に可愛い目をした子があるからよ
管理人 日月土

名前を消された三嶋

本年1月15日の記事「大空のXXと少女神の暗号」では、アニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の裏設定に組み込まれた日本古代史を、「少女神」(皇后となった古代女性シャーマン)の女系継承という視点で新たに分析し直してみました。

その中で、卑弥呼の名で語られることの多い、神武天皇の皇后、姫蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)を輩出した

 三嶋溝橛(みしまみぞくひ)

という神名、あるいはその家系に行き着きました。

そこで今回は、その三嶋家がどのような家だったのか、取り敢えず現在用意できる資料などから、その輪郭だけでも辿ってみたいと思います。

■三嶋と言えば三嶋大社

三嶋と言えば忘れてならないのは、静岡県の三島市に鎮座する三嶋大社です。私もこれまでに一度だけ同社を訪れたことがあります。

画像1:三嶋大社(画像引用:公式ページ)

まずは、同社のホームページで祀られている祭神を調べると次の二柱とされています。

 ・大山祇命(おおやまつみのみこと)
 ・積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)

 参考:http://www.mishimataisha.or.jp/shrine

また、同ホームページには、この二柱の神を総称して三嶋大明神(みしまだいみょうじん)と称するとあります。

私もこのページを訪れて初めて気づいたのですが、ここにはちゃんと「八重事代主」と、しっかり「八重」(やえ)の字が付けられており、一般的な「事代主」の名称とは異なることが明示されています。

但し、その後の説明で「事代主神は俗に恵比須様とも称され・・」云々とあるように、同社においても積羽八重事代主は「事代主」と同一視されているのが窺えます。

以前触れた通り、秀真伝では「コトシロヌシ」と「ヤヱコトシロヌシ」は明確に区別されており、世代の整合性を考慮しても、三嶋大社の祭神は事代主の孫である八重事代主とするのが正しいのではないかと考えられます。

よって、今後の分析では三嶋大明神と称せられる「事代主」とは「八重事代主」を指すとして取り扱います。

さて、もう一柱の祭神「大山祇命」なのですが、これはおそらく、三島水軍で有名な愛媛県大三島にある大山祇神社との関連を意味しているのでしょう。

画像2:大三島の大山祇神社(画像引用:公式ページ)

こちらも非常に興味のあるトピックなのですが、今回はまず八重事代主と少女神との関係についてフォーカスして行きたいと思います。

■東海の三嶋神社群

三嶋大社の御由緒を読むと、いきなり「創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります」とあります。すなわち、神武天皇以前の上代、及び神武天皇直後の上古代については記録がないと言っているのに等しく、ここで早くも、三嶋溝橛に関する調査は一旦ストップしてしまうことになったのです。

もちろん古文献などを漁れば何か出て来るのかもしれませんが、今回はそこまで調査に時間が割けられませんでした。こういう場合は取り敢えず、現在確認が可能な三嶋(三島)系神社の分布を調べてみようと、ネット検索を元に作ったのが以下の図です。

画像3:東海地方を中心とした三嶋神社群
※「三嶋神社」あるいは「三島神社」をキーワードに、近畿から関東までの太平洋側
についてGoogleマップ上を検索したもの。実際には表示されない小社が多く
存在すると思われる。色分けは地域を表したものでそれ以上の意味はない。

三嶋神は知名度が高く、中世期には分祀や勧請などが頻繁に行われたと考えられますから、その数は全国に広く分布すると予想してました。しかしながら、「みシまる 湟耳(こうみみ)」氏が書かれた本「少女神 ヤタガラスの娘」によれば、少女神のルーツは海洋民族にあるとされているので、もしもそれが正しければ、その分布は古代の海岸線に偏っているだろうとも予想していたのです。

上の画像3はまさに、それを示しているとも言え、三嶋(三島)神社は全国各地に広く見られるも、東海地方(静岡県・愛知県)の旧海岸線、相模湾沿岸(神奈川県)、そして房総半島(千葉県)に多く見られ、特に伊豆半島の集中度合いが高いのが分かります。やはり三嶋大社のお膝元だからということなのでしょうか?

■名前を消された三嶋

ここで画像3を眺めてみて、皆様は何か気が付かれませんでしたでしょうか?

もしも三嶋一族が船で海洋を渡っていた一族ならば、太平洋岸の旧海岸線には、多少の濃淡はあれども、まんべんなく三嶋(三島)神社が配置されていると考えられるのですが、画像3には、それが全く見られない地域が見受けられるのです。

画像4:三嶋神社群が局所的に見られない地域

この地図では枠外になりますが、実は紀伊半島南部でも三嶋神社は検索に掛からないのです。もちろんそういう地域があっても一概にそれがおかしいとは言えないのですが、ここで気になるのは画像4の中で示した次の2ヶ所なのです。

 (1)伊勢湾西岸
 (2)銚子、九十九里

この2ヶ所について(神)ブログ読者の皆様は何か思い出されないでしょうか?実はどちらのエリアも

 映画「千と千尋の神隠し」で舞台モデルとされた土地

なのです。詳しくは同映画を題材にした過去記事を参照して頂きたいのですが、果たしてこれを偶然と呼んでよいのか非常に気になるのです。

そしてまたこの2ヶ所は

 (1)猿田彦神社(伊勢市)、椿大神社(鈴鹿市)
 (2)猿田神社(銚子市)、椿海(中世まで存在した内海、現旭市)

と、それぞれ謎の神「猿田彦」所縁の土地として深く関連しているのです。

「千と千尋の神隠し」の主人公「千尋」は、第9代アマカミ(上代の天皇)忍穗耳(おしほみみ)の皇后となった栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)、すなわち少女神をモデルにしたと考えられるのですが、その少女神所縁の地で「三嶋」の名が見られないのはどうしたことなのでしょう?

また、猿田彦については前回の記事「猿と卑しめられた皇統」で分析した結果、これが記紀から名を消された第10代アマカミのホノアカリであろうと結論付けています。その皇后であるオクラ(天鈿女)は、下照姫の血を継承する少女神ですから、この方の場合も栲幡千千姫と同じく、上の両地では三嶋との関係が見られないことになるのです。

 「では、三嶋と少女神の関係は希薄だったのか?」

それについて、私はこう考えます。ホノアカリが日本の皇統史から消された存在なら、その皇后についても、三嶋の名と共に同時に消されたのではないのか、と。

画像5:千葉県長生村の三嶋神社
ここから北側の九十九里浜沿いで「三嶋(三島)」の名は検索ヒットしなくなる

この考察は更に、二人の少女神、栲幡千千姫とオクラ(天鈿女)が、いったいどのような関係で結ばれていたのか、新たな関心をも呼ぶのです。

栲幡千千姫の別称は「スズカ姫」で「鈴」を表し、また、映画の中で千尋の良き指南役として最後まで親身に世話を焼き続けるキャラクター「リン」もまた「鈴」の変名です。ここから、二人は「鈴(すず)」をシンボルとする同系の人物を指すと考えられ、恐らく両者とも同じ少女神で、リンの場合は同地に縁の深いホノアカリ(猿田彦)の皇后オクラ(猿女君・天鈿女)を指すと考えるのが可能性としては一番妥当でしょう。

画像6:映画「千と千尋の神隠し」から千尋に目を掛けるリン
それぞれ栲幡千千姫、オクラ(天鈿女)の二人の少女神をモデルにしていると考えられる

結局、三嶋について考察らしい考察にはならなかったのですが、これまでに導いてきた少女神に関する結論と奇妙な関連性を見つけた、それだけは言えるのかもしれません。


見晴らせば北に白里浜続く今は隠れし白鳥の山
管理人 日月土

猿と卑しめられた皇統

前回の記事「豚と女王と木花開耶姫」ではスタジオジブリのアニメ映画「紅の豚」を題材に取り上げ、そこに登場する少女キャラクターの「フィオ」が、どうやら日本神話に記載されている「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)をモデルにしているだろうという結論を導きました。

画像1:フィオ

前回は他の登場人物については歴史モデルの分析を行っておりませんでしたが、残りの主要キャラ二人(マルコとジーナ)についてもその歴史モデルを確定させ、また、その意味について考察したいと思います。なお、この分析は前回2月1日配信のメルマガ71号の記事解説と重複する部分がありますので、メルマガの購読者様は予めご了承ください。

■木花開耶姫とその父母

マルコとジーナ、そしてフィオの3人の関係については、映画の設定上は血縁関係はありません。しかし、そのなんとも近しい関係が、「マルコとジーナ」の夫婦関係、そして「フィオ」が2人の間に生まれた娘をそれとなく匂わしているのは、物語の展開からそれほど異論がない解釈かと思います。

画像2:3者の関係

この設定、敢えて血縁関係にしなかった別の意図も見え隠れするのですが、ここでは血縁関係と捉えて考察を進めて行きます。

さて、まずはフィオのモデルとなった木花開耶姫なのですが、日本書紀や古事記、また秀真伝におけるその親子関係は次のようになります。

画像3:史書における関係

これをそのまま取れば、マルコのモデルは大山祇神なのかとなりそうなのですが、この母不詳というのが曲者で、何故に10代アマカミ(上代における天皇)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の皇后ともなった方の、その母の素姓が記されていないのか、それ自体が大きな謎だとも言えます。

高貴な方なのに母の名が不詳である、これは何も木花開耶姫に限らず、瀬織津姫(せおりつひめ:アマテルカミ皇后)、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ:オシホミミ皇后)など他の上代皇后についても言える話なのです。

古い話だから情報が欠けいても仕方がないと思われそうですが、果たしてそれだけで済まされる問題なのでしょうか?

2年前の令和3年、アニメ映画「もののけ姫」を分析し、登場人物の少女「サン」が木花開耶姫をモデルとしていると結論を出しましたが、その時にこの父母問題を取り上げ、推敲を続けた結果、アニメで表現されている次の登場人物(動物)との関係性から、

 サン(少女) - モロ(犬神:父兼母)

これが

 木花開耶姫 - 味耜高彦根(あぢすきたかひこね)

の関係に対応することに気付きました。詳しくは次の動画を改めてご確認いただきたいと思います。

動画:もののけ姫とモロ

秀真伝には味耜高彦根の妻はシタテルヒメ(下照姫)またはオクラという名であると記されていますが、下照姫はアマテルカミの妹としても登場しているので、ここでまた、貴人と同名の姫が別家系に、それも比較的近い世代に再び現れると言う不自然さを覚えたのです。ですから私は、この時の分析では二人の下照姫を同一人物とみなしました。

これらの考察から、大山祇神は木花開耶姫の実の親ではなく養父であり、実際の父母は次のような関係であっただろうと結論付けたのです。

画像4:分析後の親子関係

但し、この解釈に全く問題が無い訳ではありません。味耜高彦根と下照姫は世代的に2代違うので、年齢的に孫と祖母位歳が離れていたと考えられます。いくら若年婚が普通だった昔とは言え、30~40年年長の女性を妻に迎え木花開耶姫を含む複数の子を残せるのかという疑問は残ります。

画像5:世代の違いがこの解釈の障害に

ここで解決のヒントを与えてくれたのが「少女神」という女系家系の概念なのです。既にお伝えしているように、下照姫は伊弉冉尊(いざなみのみこと)の血を継ぐ少女神であり、味耜高彦根が娶った下照姫とは、かの下照姫の血を継いだ少女神、つまり、世襲を表す意味で「下照姫」が使われたと考えれば筋が通ります。よってここでは、後継の下照姫のことを、秀真伝に従って「オクラ」と表記します。

この概念は非常に重要であり、前述したように上代皇后の母の名がどうして史書からきれいに消されているのか、その理由を考える上で大きな意味を持ちます。端的に言ってしまえば

 女系継承から男系継承へと史書の書き換えが行われた

と考えられるのです。これは史書を解釈する上での大きな方法論の転換を示唆しているのですが、ここではこれ以上触れないことにします。

以上の考察を以って、木花開耶姫の実の両親は次の様であっただろうとの推理が成り立つのです。

画像6:少女神の暗号と解釈して世代を調整

以上で主要登場人物の関係性は示せたのですが、問題なのはここに現れた味耜高彦根とオクラをどう解釈したら良いのか、あるいはモデルに使う意味とは何なのか、つまりは映画製作者の真意なのです。

■味耜高彦根の再考察

この問題を解決するために、まずは味耜高彦根の属性について整理してみます。まずは史書に記述されている描写、次にジブリ作品における描写について、その主要ポイントを書き出してみましょう。なお、これにはこれまでの分析結果を採用するものとします。

 A-(1)父は初代大物主の大国主、母はタケコヒメ(※秀真伝から)
 A-(2)妻の名は下照姫 (※下照姫後継のオクラのことを指す)
 A-(3)天稚彦(あめわかひこ)と見た目が良く似ている
 A-(4)妻から和歌を献上され御統(みすまる)と讃えられる
 A-(5)「もののけ姫」の作中で犬神の「モロ」と表現される
 A-(6)「紅の豚」の作中で呪われた豚の「マルコ」と表現される

さて、上記A-(3)に天稚彦が出てきたので、次にこの登場人物についてその主要属性を書き出してみます。

 B-(1)父は天国魂アマクニタマ(※秀真伝から)
 B-(2)葦原中国の平定に赴いたが帰還しなかった
 B-(3)返し矢に当たり死ぬ
 B-(4)「もののけ姫」の作中で「アシタカ」と表現される

B-(3)とB-(4)は深く関係しており、本来「アシタカ」は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をモデルにしているのですが、作中に矢で打たれ一度絶命するシーンがあることから、同時に天稚彦をも表現していると結論が出ています。

そして、秀真伝には瓊瓊杵尊とホノアカリが兄弟で、二人でそれぞれ王朝を開く、2王朝並立時代があったとの記述があります。

画像7:秀真伝に残されている2王朝並立

瓊瓊杵尊とは天孫降臨にも登場する現皇統へと続く御正統ですから、間違っても他の家系と同一表現するとは考えにくく、史書において極めてマイナーな存在である天稚彦とは、瓊瓊杵尊とは同列の存在、すなわち「ホノアカリ」を指すとしか考えられないのです。よって、

 天若彦=ホノアカリ -[1]

という結論を既に分析によって得ています。

ここで、気になるのがA-(3)なのです。この「見た目が似ている」と表現から、私はそれを「両者共に正当な後継者(大物主出雲皇統とアマカミ天孫皇統)なのにも拘わらず、記紀からその史実を削除された気の毒な存在」と、境遇が似ているという観点で捉えていましたが、実はそっくりそのまま次の関係でも矛盾しないことに後から気付きました。

 味耜高彦根=天若彦 -[2]

何故ならば、[1]、[2]から

 味耜高彦根=ホノアカリ -[3]

が導かれるのですが、これがA-(4)の「御統」(みすまる)、すなわち歴代皇統という意味に実にぴったりと収まるのです。

A-(1)から味耜高彦根は大国主の出雲皇統と考えていましたが、そもそもホノアカリはアマカミ皇統から排除された存在ですから、後の史書編者が出雲皇統に付け替えたとしてもおかしくありません。そして、それを補強する暗号的記述がB-(2)であるとも考えられるのです。

何より、出雲皇統を強引に兄弟の事代主(ことしろぬし)に奪われたのならば、出雲皇統内での争いに関する記述がどこかにあってもよさそうなのに、今のところはそれは見つかっていません。

よって私は次の様に結論を出しました。

 味耜高彦根とは記紀から抹殺された上代天皇ホノアカリである

つまり、ジブリ映画キャラクターの「モロ」及び「マルコ」はホノアカリを指していることになります。当然ながら「ジーナ」はその妻オクラ(下照姫後継)を指すことになります。

画像8:千葉県船橋市の茂侶(もろ)神社
社名が出雲系なのに主祭神が木花開耶姫という不思議な神社。県内の他の茂侶神社は主祭神が出雲系の大物主。姫が味耜高彦根の娘なら話が通るが、実はそれ以上の隠された秘密があったのだ。

■猿から豚へ、豚から猿へ

前回の記事では「豚」の解釈について幾つか試みてみましたが、その中で同じジブリ映画の「千と千尋の神隠し」に出て来る豚についても簡単に触れています。

その中で「紅」と「豚」の組み合わせが千葉県銚子市・旭市周辺を指す、すなわち特定の土地を表す記号の意味があるのだろうと指摘しています。

詳しくは過去記事「千と千尋の隠された神(2)」をご覧になって頂きたいのですが、同記事の最後に

 油屋のモデルは猿田神社(千葉県銚子市)

とあるのにご注意ください。

「千と千尋の神隠し」は間違いなく、日本神話の神「猿田彦」(さるたひこ)を意識しているのです。それは、登場人物の「ハク」が「白」と書き換え可能で、この字は更に

 白 = 百 マイナス 一 = 九十九

となり、九十九とは銚子を北端に始まる九十九里浜を指すと考えられるのです。

また「白」は「白鬚」(しらひげ)すなわち「猿田彦」を表す符丁とも考えられます。

千葉県東総地区が猿田彦所縁の土地であることは過去記事「天孫降臨とミヲの猿田彦」、「椿海とミヲの猿田彦」にありますので、ぜひそちらにも目を通してみてください。

この猿田彦なる存在は天孫降臨時の道案内の神として有名ですが、謎が多く、秀真伝の研究者である池田満氏は

出自は不明だが、かなり高貴な家柄の出であろう

と述べており、私が師事を乞うている歴史研究家のG氏は、猿田彦と出雲の関係について

猿田彦の足跡は、出雲族の分布と被っている。おそらく、製鉄や土木など出雲社会を指導したのが猿田彦とその一族であろう。

と語っています。

猿田彦を祭神として祀る神社は全国に見られ、主祭神でなくとも神社の鳥居の傍に猿田彦神社と書かれた石碑や小さな祠を見ることは珍しくありません。これだけポピュラー神様なのに、他の神々との関係性がまるで希薄なのは、いったいどういう事なのでしょう?

そもそも、人(あるいは神)に向かって「猿」などと獣の名で呼ぶことは不遜の極みです。ですから私は

 猿田彦は呪われた神

と解釈していますし、その妻とされている猿女君(さるめのきみ)あるいは天鈿女命(あめのうずめのみこと)も同じように卑しめられた存在と見ています。

さて、以上の説明をご覧になって私が何を言いたいのかお分かりになったでしょうか?まとめてみると、猿田彦は

 ・高貴な人物と考えられるが出自は不明
 ・出雲族と関係が深い
 ・史書では卑しめられた存在

となります。

これらはまるで、前節で取り上げた「ホノアカリ」の境遇とそっくりではないでしょうか?そして何より、史書が獣(猿)の名前を冠したところなど、ジブリ映画の中で、獣(豚)の姿(※)で表現されたホノアカリと見事に共通性が見られるのです。
※「もののけ姫」では犬

以上はかなり荒っぽい論理展開ではありますが、ここで私はこの考察に一つの結論を出したいと思います。

 猿田彦とは上代天皇ホノアカリのことである

そして必然的に、猿女君とはその少女神皇后であるオクラ(下照姫後継)という結論に到るのです。

画像9:失われたホノアカリ王朝とその変名
記紀から名が消されたと同時に、複数の変名より事跡が残された
画像10:千葉県銚子市の猿田神社
もしかしたら、ここがホノアカリ王朝の名残なのかもしれない

例え2000年前の出来事であっても、この国の史実に絶対残してははならない存在、それがもう一つの王朝の始祖ホノアカリでありその妻オクラである。そして、失われた王朝への呪いが現代のアニメ作品に到るまで色濃く反映されている・・・

もしもそれが事実なら、日本とはなんと執念深くも恐ろしい国なのだと思わずにいられません。


秋深く赤城の山に踏み入れば清き流れの大猿の滝
管理人 日月土

豚と女王と木花開耶姫

昨年、みシまる湟耳(こうみみ)氏の著書「少女神 ヤタガラスの娘」を読んで以来、「少女神」をテーマにそれなりの本数の記事を書いてきました。

この「少女神」を切り口に近年のアニメ作品を分析すると、そこにはまた共通する歴史的プロット、キーワードが見出せるのです。直近の投稿でも「SPY×FAMILY」、「ダーリンインザフランキス」を取り上げましたが、そこにはやはり

 古代天皇の皇后となった女性シャーマン(少女神)

の姿が見出せるのです。

さて、本ブログではアニメ分析の最初の取り掛かりとして、スタジオジブリの大ヒット作「もののけ姫」、「千と千尋の神隠し」を題材に取り上げ、そこに登場する人物の関係性が日本神話に登場する神々(実際は実在した古代天皇とその関係者)のそれに近い、といよりは、おそらくこれらの作品は日本神話を基にストーリーが組まれているのだろうと、結論付けています。

これが単なる神話のパクリだというだけの話ならば、アニメファンに喜んでいただいてこの話題は終了なのですが、これまでの分析の結果、どうも、日本書紀や古事記、秀真伝にも書かれていない要素がアニメには描かれている、要するにアニメ制作サイドは一般に普及している史書以上の情報を持っているらしいことが分かってきました。

そこで、本ブログでは、現代アニメを「もう一つの史書」とみなし、他の史書と比較検討しながら、そこに描き込まれた真の歴史を読み解こうと試みるものです。私自身は間違ってもアニメブログにするつもりはないのですが、何だかアニメばっかり取り上げてふざけた歴史ブログだと思われているのならば、それは私の実力不足なのでどうかご容赦ください。

■紅の豚:他の作品との共通点

今回はスタジオジブリの作品の中でも、少し時間を遡った1992年の劇場映画作品、「紅の豚」について分析を試みます。

画像1:紅の豚

さて、この「紅の豚」ですが、豚がいきなり主人公というのですから、設定としてはかなり突飛であると言えます。宮崎監督としては大人向けのアニメ作品を作ろうとしたとエピソード的には伝えられているようですが、鳥獣戯画のようなハイセンスな婉曲表現を狙った訳でもないことは、その他の登場人物が全て普通の人間として描かれ、特に風刺の要素などが見られないことからも窺い知れます。

それなのに主人公だけが動物に、それも豚などと表現したのか、既にこの辺りから何か別の意図があることを予見させるのです。一応、作中でマルコは「呪いを掛けられて豚にされた」と説明はあるのですが、その経緯や物語終了後にどうなったかなどは一切説明されていません。

同作品を観ていない方のために、ここではまず分析の対象となる登場人物とその関係性を簡単にまとめてみました。細かい設定やストーリーについては本作品をぜひご覧ください。

画像2:主要登場人物
血は繋がっていないが親子の世代関係である

さて、ジブリ作品が大好きな方なら(私は違いますが)、「呪いを掛けられて豚になった」という説明を聞かされて直ぐに次のシーンを思い出すのではないでしょうか?

画像3:「千と千尋の神隠し」から豚になった両親と驚く千尋

そうなのです、「豚」という記号は、「紅の豚」公開から10年後の2002年のジブリ作品「千と千尋の神隠し」で再び登場しているのです。

過去記事「千と千尋の隠された神(2)」では、「紅の豚」のタイトルに使われた「紅」と「豚」のキーワードが、それぞれ「紅花」と「養豚業」のことを指し、それが、かつては紅花の産地であり、現在は養豚業が盛んな、千葉県東総地区、現在の銚子市・旭市周辺の土地を表す記号ではないかとしています。もちろん、この土地は、「千と千尋の神隠し」でも舞台のモデルとなった土地であろうと結論付けています。

ここから、両作品が非常に密接な関係にあることが窺われるのですが、千尋が栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)をモデルにしていることはもう分かっていますから、「紅の豚」もおそらく同時代の古代天皇とその皇后、すなわち少女神をモデルにしているのが予想されるのです。

■どうして豚でなければならないのか?

上述の過去記事では、土地を表す記号としての「豚」を想定しましたが、「紅の豚」における表現からは、特定の土地(千葉県東総地区)を指している感じは伝わって来ません。そもそも作中の舞台が第一世界大戦後のイタリア、そしてアドリア海という設定ですから、日本国内の土地を予見させる要素はゼロと言って良いくらいです。

すると、「豚」が指示す意味は、おそらく土地に拠るものだけではないことが分かってきます。それならば、「豚」の文字にどのような含意があるのか、そこをもう少し詳しく見て行くことにしましょう。

日本語の「豚(ぶた)」は中国語では「猪(zhu)」と書きます。猪はもちろん日本では「いのしし」となります。ここでは

 豚 ≒ 猪

としましょう。さて猪と言えば十二支を表す「亥」と同義であると見なせます。すなわち

 豚 ≒ 猪 ≒ 亥

となります。

さて、亥に関しては「亥の子」というお祝い日があるのをご存知でしょうか?Wikiペディアには次のように書かれています

亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の上の(上旬の、すなわち、最初の)亥の日のこと、あるいは、その日に行われる年中行事である。玄猪、亥の子の祝い、亥の子祭りとも。
主に西日本で見られる。行事の内容としては、亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈る、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などがある。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A5%E3%81%AE%E5%AD%90

どうやらこのお祝いは、猪が非常に多産であることから、それにあやかり子孫繁栄を願って亥の日に行われるようなのです。ここで、「豚」に生殖・繁殖の意味が加わります。

さて、次に調べるのは、十二支の「亥」の字が持つその真意についてです。私たちは十二支と言えば、直ぐに12種類の動物を思い描きますが、陰陽五行におけるそもそもの十二支の定義とは、

 樹木の成長過程

を表すものであったと言われています。現在使われている動物を対応させる形式は、覚え易さのため後に普及したものだとも言われていますが、真偽の程は私も良く分かりません。

この植物形式による十二支の解釈は、具体的には、

 子(ね) → 種となって次の力を蓄えている状態
 寅(とら)→ 芽が伸び始める
 申(さる)→ 実の形ができる

などの解釈が付けられています。これに従って「亥」の字を解釈すると

 亥(い) → 種に成長力がみなぎった状態

となります。亥と子の違いは、亥(い)は種子として完成したことを表し、世代交代前の一サイクルが完了したこと、そして、子(ね)は次世代のサイクルが新たに始まったことを意味します。ここから、「豚」の字には「完成した種子」の意味が含まれているとも解釈可能なのです。

動物的解釈の「生殖・繁殖」と植物的解釈「種子の完成」、この2つの言葉を聞いて読者の皆様は何を想像するでしょうか?私はここから、次の言葉を連想します。

 生殖・繁殖  → 血の継承
 種子の完成  → 遺伝子

そして、遺伝子による血の継承とは、前回記事「大空のXXと少女神の暗号」で分析した「XX」(ダブルエックス)の解釈と見事に重なってくるのです。

■キャラ名が示すもの

ここで、登場人物名を分析してみます。もう一度画像2を見てください。

まずはジーナですが、イタリア語表記では「gina」となりますが、これはおそらく「女王」を表す「regina」の省略形であると考えられます。

次にフィオですが、イタリア語表記では「fio」となり、これもジーナと場合と同様に「花」を表す「fiora」の省略形なのでしょう。

「女王」は日本の事情を考慮して翻訳すれば「皇后」となるのは説明不要でしょう。そして、「花」の付く古代皇后は誰なのか、それはこのブログ記事のタイトルを再度眺めて頂ければ直ぐにお分かりになると思います。

この歴史上の皇后はジブリ映画「もののけ姫」では「サン」のモデルになりました。詳しくは「もののけ姫」に関する過去記事をご覧になってください。

さて、問題なのは「マルコ・パジェット」で、あだ名の「ポルコ・ロッソ」がイタリア語の「porco rosso(赤い豚)」を表すのは良いとして、本名がいったい誰を表すのかが私もまだ完全には解読し切れていません。

ずばりその名が示す様に、新約聖書の聖マルコを指すのではないかとも考えたのですが、どうもしっくりきません、しばらくしてこれではないかと閃いたのが次のキャラクターです。

画像4:ちびまる子ちゃん
  漫画連載:1986-1996、
TV放映:1990-1992

いくら何でも親父ギャグが過ぎるのではないかと思われるかもしれませんが、このキャラとの関係を疑った理由は名前の響き以外にもあるのです。

それは、「紅の豚」の公開時期とTV放映・漫画掲載の時期が重なっていること、そしてこの時期「ちびまる子ちゃん」は全国的に大ヒットしていたことが挙げられます。

そして何より、このキャラクターが少女時代の作者、「さくらももこ」さんの自伝的肖像であるという点なのです。作者の名前には

 桜と桃

の2つの花の名前が刻まれていること、そして何より「紅の豚」の主題歌が、シャンソンの名曲「Le Temps Des Cerises」、邦題

 さくらんぼの実る頃

である点なのです。

イタリアが舞台なのにどうしてカンツォーネ(Canzone)ではなくフランスのシャンソン(Chanson)なのか、これは、この映画の冒頭から非常に気になった点でもあります。

そして、さくらんぼ(Cerise)とは、桜の木の種子のことであり、「種子」を逆に読めば「子種」となります。マルコ(男性)の「子種」と「皇后」(女性)の組み合わせに次世代の「花」(女性)が加わる、この関係が何を示すのかはこれ以上言葉にしなくても明らかでしょう。

これらの表現の一致を果たして「偶然」で片づけて良いものなのでしょうか?私はこれを、宮崎監督個人の着想を超えた、出版・アニメ制作業界が結託した高度な大衆心理誘導工作の一部だと捉えるのです。


Longtemps, longtemps, longtemps
Après que les poètes ont disparu
Leurs chansons courent encore dans les rues(*)
管理人 日月土

*「L’Âme des poètes」(詩人の魂)より