七枝樹と弥生土器

ここ数回のブログ記事の内容をまとめると、日本神話の素戔嗚(すさのお)と奇稲田姫(くしいなだひめ)に関わる重要アイテムとして

 牛頭天皇(素戔嗚の別称) → 牛
 八岐大蛇と奇稲田姫    → 蛇

があり、この動物による象徴が、シュメール神話の円筒印章に描かれた、次の象徴と重なることをお伝えしました。

 王(ハル) → 牛角冠
 女王(キ) → 蛇

そして、シュメールの王と女王を表す記号として

 王(ハル) → 3枝
 女王(キ) → 4枝 (または2枝)

があり、これが一つの樹の幹から伸びた枝、すなわち七枝樹として描かれていることも併せてお伝えしています。

2つの神話の間で、「牛」と「蛇」が奇妙に共通しているのも驚きですが、「世界の中の素戔嗚伝承」でお伝えしたように、日本の縄文時代の線刻石に

 牛角冠・蛇・3点・2点

とほぼ共通するパターンが見られることから、もはや

 素戔嗚神話とシュメール神話の共通性は確実にある

と断定しても良いのではないかと思われるのです。

画像1:東京都町田市で発見された線刻石
出典:川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)

■弥生土器に描かれた七枝樹

神話とされる伝承には、その元ネタとなった史実があるだろうと以前からお伝えしていますが、素戔嗚伝承は記紀が示す通り神武天皇が登場する以前の出来事と想定されます。およそ、紀元前から紀元後に移り変わる前後であったと思われます。

前回の記事「蛇と樹とシュメールの女王」では、正倉院に収められている奈良時代の「鳥毛立女図」に七枝樹をモチーフとした樹木が描かれていると見られることから、この七枝樹思想または信仰は、少なくともその時代まで日本国内で続いていたと考えられます。

その数百年もの長い期間があったなら、他にも七枝樹をモチーフとした遺物が何か残っているだろうと資料を見回すと、鳥取県米子市淀江町稲吉の角田(すみだ)遺跡から出土した弥生式土器に、それらしき絵画がヘラ描きで描かれているのに気付きます。

画像2:角田遺跡絵画土器(A~Eの記号は筆者による)
出典:一般財団法人米子市文化財団 
※ 図中青丸で囲った部分は、考古学会員の佐々木謙氏が
考古学雑誌に発表したものに後から描き足されている部分

ここで注目すべきは「B」の画像で、この資料を掲示していたサイトでは「木にぶらさげられた物体」と、それこそ見たままを簡単に説明されています。

これについて多少踏み込んで考察しているのが、磐座(イワクラ)学会さんの論文で、そこでは、土器に描かれている絵画が単純な風景や事物の描写であるというそれまでの見方を排して、祭祀、それも太陽祭祀の祭具であろうとの仮説を打ち立てています。

 2 従来の解釈の問題点

  従来の解釈は、現在のところ一般的には銅鐸の
 祭りの風景を描いたものとされ、その銅鐸の祭り
 は農耕儀礼あったと推測されている。しかし、そ
 れが真の解釈であろうか。

 その疑問の理由は、図Bにある。私にはこれが「木
 に吊るされた銅鐸」にはどうしても見えないからで
 ある。これを、自信をもって「木に吊るされた銅鐸」
 だと言い切れる人はいないであろう。

 ならば、「銅鐸の祭り」の解釈も、この絵に関して
 は成立しがたいと言わざるを得ない。裾のすぼまった
 紡錘状の銅鐸などありえないし、その銅鐸を吊るして
 いる樹木の枝も棒のようである。

 従って、「木に吊るされた銅鐸」は農耕儀礼と結びつ
 けるためのいささか強引な解釈と言わざるをえない。

  (中略)

 [鏡の祭具]
 ここで、土器絵画(図B)を鏡を取り付けた祭具と
 考えるに至った発想の根拠を示そう。

 <土器絵画(図B)の特徴の推定>
 ①紡錘状の物体は、上下左右対称である。
 ②二つの紡錘状の物体は、同じ形状で左右対称の
  位置にある。
 ③樹木状の物体は直線的に描かれており、樹木の
  ような天然のものでなく、人工物である。

 これに、使用される鏡は弥生前期末に楽浪郡より
 渡来した多鈕細文鏡と推定する。

同論文から抜粋

私も、このような文様は、物作りがたいへんだった古代期においては、祭祀など何か特別な催事の為に描かれたと考えるのが順当だと思います。

この論文は、その形状を非常に細かく観察しており、仮説に至ったプロセスを丁寧に積み上げていますが、この棒状の祭具と思われるものの上部、そこから突き出ている横棒が何であるか、また左4本、右3本の非対称であることについては特に言及していません。

もうお分かりの通り、この4本と3本の左右の非対称性に注目すると、これまで考察してきたテーマと俄然話が噛み合ってくるのです。

画像3:シュメール円筒印章と角田弥生絵画の比較

枝の数もそうですが、何と言っても、枝から垂れ下がっている2つの楕円形の物体までがデザイン的にそっくりなのです。

これはもはや、弥生中期と呼ばれる時代にも、七枝樹思想があったと見なして良いのではないでしょうか?

■2つの楕円物体の考察

ここで、昨年10月31日の記事「方舟と獣の数字」で紹介した。山口県下関市、彦島で発見された線刻石から、七枝樹の象形と思われるものを再度見てみます。

画像4:彦島線刻石の七枝樹

こちらの描画パターンは角田弥生絵画とは少し異なるメノラー型ですが、7つの枝のその下に、楕円形の物体こそ描かれていませんが、中心線から下方に向って左右に垂れさがる枝の様なものが描かれています。

私はこれも、シュメール円筒印章、弥生絵画に描かれた樹木のようなものと同じと考えますが、この垂れ下がったものがいったい何なのかが少し気になります。

樹下美人図では、七枝樹は明らかに樹木として描かれているので、これを樹木の象徴と見なした時、木の枝に垂れ下がるものと言えば、一般的に

 果実

ということになります。

シュメール円筒印章ではその樹木の左右に王(ハル)と女王(キ)が相対していますので、「二人の男女の間の果実」と言えば、それは明らかに

 世継ぎ、王位継承者

ということにならないでしょうか?

すると、ここで問題になるのが、

 どうして王位継承者が2人なのか?

という点なのです。

2人の王権継承者・・・このフレーズを聞いて本ブログに長くお付き合い頂いた読者さんなら次のフレーズを思い出すことでしょう。

 少女神:二人の王権継承者

どうやら、これまで見てきた「少女神」というテーマは、日本古代王朝から素戔嗚、そしてシュメールの王にまで話が広がりそうなのです。


イザナギ二百十六、イザナミ百四十四の仕組み
管理人 日月土

蛇と樹とシュメールの女王

これまで「牛の頭(牛頭)」、あるいは牛冠を戴いた王が、どうやら古代アジア全域で共通の象徴として残っているのではないかというお話をしました。

当然、牛頭天皇(ごずてんのう)の異名を持つ日本神話のヒーロー「素戔嗚命」(すさのおのみこと)もその中にに含まれることになります。

そして、前回記事「世界の中の素戔嗚伝承」では、東京都町田市の綾部原で見つかった縄文時代中期頃のものと見られる石の上に、古代シュメールの円筒印章(*1)と同様のパターン

 牛頭とその象徴三(3)、蛇とその象徴二(2)

が刻まれているのを確認しました。

*1: 粘土の上を転がして文様を刻む円筒形の印章

この石がシュメールの円筒印章と同一コンセプトを象徴すると見るならば、牛頭(あるいは牛冠)は男性の王を表し、蛇はその王妃を指すことになります。

日本の素戔嗚神話と比較するのは脇に置いて、今回は王妃の象徴について少し考察してみたいと思います。

■正倉院の樹下美人図

今回の話を進めるに当たって、綾部原の線刻石が紹介されていた歴史言語学の研究者である川崎真治さんの著書「日本最古の文字と女神画像」(1988 六興出版)を全面的に参考にしていることを先にお断りしておきます。

極めて密度の高い内容が書かれている書籍であり、ここではその中の極々一部を私がご紹介する形になりますが、浅学故に、間違いや思い違いもあるかと思いますので、その点は予めご容赦ください。

さて、今回ご紹介するのは、歴史の教科書や美術書などで見た方も多い次の絵画についてです。

画像1:正倉院《鳥毛立女屏風》(とりげりゅうじょびょうぶ)第五扇
作者不明 奈良時代(752〜756)
引用元:artscape https://artscape.jp/study/art-achive/10106681_1982.html

これは樹木の下の美しい女性、いわゆる「樹下美人図」(じゅかびじんず) と呼ばれる構図のカテゴリーで、同様の構図の美術作品は中国の墳墓、インドの寺院の彫刻などでも見つかっています。

樹下美人図(模本)伝トルファン(アスターナ古墳群出土 
原本はMOA美術館が所蔵
引用:東京国立博物館 画像検索 https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0020987

これについては、コトバンク(出典は株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」)に詳しいので、少し長いですがその解説をここに転載します。

樹下美人図 (じゅかびじんず)

〈樹下美人図〉と通称されるのは,正倉院《鳥毛立女屛風(とりげりつじよのびようぶ)》やアスターナ出土の《樹下人物図》(東京国立博物館,MOA美術館)などを指し,樹木の傍らに立つ男女,ことに女性を描くことが,古代アジアにおいて特殊な画題であったと考えられる。

8世紀を中心に,唐王朝の文化の及んだ東は日本から西はトゥルファンに至る広い範囲に,この画題の作品が見られる。しかし画題の意味するところは必ずしも明確ではない。

正倉院の《鳥毛立女屛風》においても,唐装の美人が樹下にたたずんだり,あるいは岩に腰をおろして憩っている情景とみるほかはなく,特別意味ある所作をなしているともみえない。

《鳥毛立女屛風》については,用いられた鳥毛が日本産の鳥の毛であり,また裏張りに天平勝宝4年(752)の反古紙が用いられており,同年から756年に正倉院宝物が東大寺へ奉納される間に制作されたことになろう。

男女一対のアスターナ出土の樹下人物図についても,侍者を伴った男女の会遇の場面と解釈する説もあるが必ずしも明らかでない。この両図は同一の墓室からの出土で,裏張りに唐の開元の年記を有する反古紙を用いており,その制作は開元中期(730ころ)以降とされる。

またこのほかのアスターナ出土の《官女図》(1972出土)や《胡服美人図》(大谷探険隊請来),さらに《春苑奏楽図》(スタイン請来。ニューデリー)では,楽器を奏でる情景や座して囲碁を打つ女性,立ち姿で鳥とたわむれる女性など,いわゆる風俗美人図ないしは官女図というにすぎない。

 中国中原地方にこの種の作品を求めると,独立した作品は見当たらないが,705年(神竜1)に造営された永泰公主墓や章懐太子墓などの壁画中に,宮廷の官女たちが庭先に居並ぶ中に樹木の傍らに鳥とたわむれる情景を描いた個所がある。しかも樹下人物図は中原やトゥルファンにおいては,いずれも墳墓内に用いられた例であり,風俗人物図と墓室内の装飾という結びつきが興味深い。

一方,この樹下人物図の起源については古くより西方説があり,インドのヤクシーやペルシアの〈生命の樹〉の傍らに立つ女神などとの共通性が指摘されてきた。しかし,現存作品はむしろ唐朝風俗画としての華麗な唐朝文化の香りこそ伝えているが,西方的要素はむしろ少ないと思われる。

執筆者:百橋 明穂

コトバンク「樹下美人図」(じゅかびじんず) から

この解説を読むと、鳥毛立女屏風については「特別意味ある所作をなしているともみえない」、またアスターナ出土の樹下美人図については「侍者を伴った男女の会遇の場面と解釈する説もあるが必ずしも明らかでない」と、要するに、この構図(画題)に関してはその意味について「よく分かっていない」という言うのが本音なのでしょう。

しかし、この構図にこそ非常に大きな意味が込められているとするのが、川崎説なのです。

鳥毛立女屏風の構図について、川崎説では女性の顔に描かれている、インドの方がよく額に付けているマーク(ティーカ/ティクリ)に似た印から、その真意を見出しているのです。

 鳥毛立女図の樹下美人の額にあった菱形四点マークは「四」の枝
 をあらわすマークであり、すなわち、

   Ki-lam-ā-da (キ・ラム・アーダ) = 四枝の蛇女神キ

 をあらわすマークなのだ。また、唇の左右の「二点」はすでにの
 べておいた「三」と結ばれる(「牡牛神ハル」と結婚する)とい
 う意味のタブ(二)だった。

川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」から

ここで川崎説を補足する次の図を掲載します。

画像3:シュメールの牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」

シュメールの牡牛神(男神)の名は「ハル」、蛇女神の名は「キ」と呼ばれ、中央に置かれた七枝樹はハル側に3本、キ側に4本突き出ています。

これを以て川崎説による鳥毛立女図の解読を図中に示すと次のようになるでしょう。

画像4:鳥毛立女図の分析図

要するに、ここに描かれた「樹」とは七枝樹の象徴であり、その内の四枝を示す記号として額の四点が描かれているのだろうということなのです。

川崎説で少し曖昧なのは、女神を指すのが「ラム:四(4)」なのか「タブ:二(2)」なのかなのですが、その混乱がこの図の分析にも現れています。

これについては既に説明したように

 二人の皇后(正妃と少女神)

というこれまでの古代史考察で得た知見を取り入れることで簡単に解決することが分かります。

正妃(2)と少女神(2)の二人を合わせて一組の女王「4」となりますが、記録上王と結ばれるのは正妃(2)のみであり、少女神は影の存在となり、国家シャーマンとして国家的神事に専従するというものです。

少女神の概念はあくまでも日本古代史を分析することで得た一つの仮説ですが、シュメールの印章の意味をこれで説明できてしまうのは私も少々驚きなのです。

■素戔嗚の皇后

鳥毛立女屏風は奈良時代、国内で描かれたものとされていますが、そうなると、今から1300年前の日本では

 牡牛神「ハル」と蛇女神「キ」、七枝樹

の概念が、いくらか形骸化したとはいえ残っていたことになります。

冒頭で述べたように、日本神話における牡牛神とは素戔嗚であり、牡牛神「ハル」が素戔嗚に相当するなら、女王「キ」は誰に相当するのでしょうか?

記紀に拠れば

 神大市比売(かむおおいちひめ 古事記)
 奇稲田姫(くしいなだひめ 日本書紀・古事記)

となりますが、そう言えば、奇稲田姫と素戔嗚の出会いは

 八岐大蛇(やまたのおろち)

すなわち大きな蛇がそこに介在しているのです。

神話に記された牛と蛇との邂逅、東京都町田市で発見された牛頭と蛇が刻まれた縄文の石、そしてそれに類似するパターンのシュメール円筒印章と樹下美人図、これらはいったどのように日本古代史と結びついて 来るのでしょうか?


管理人 日月土

安房の国の忌部

ここ数回はアニメ「しかのこのこのここしたんたん」を元ネタに記事を展開してきましたが、意外にも同作品に組み込まれていた歴史的暗喩の範囲が広く、正直、その全てを解き明かせている訳ではありません。

今回は、そのアニメの構造解析はお休みにして、最近調査に向かった千葉県の館山市、古い地名で「安房」(あわ)と呼ばれた、千葉県房総半島の南端の地についてレポートしたいと思います。

■忌部氏(いんべうじ)と安房の国

11月初旬の朝、薄曇りの天候の中、館山市街を出発して向かったのは、市内南部にある洲宮神社(すのみやじんじゃ)です。

ここは忌部氏ゆかりの古代祭祀が行われた場所と聞いて向かったのですが、現地に着いてみると、外見はいたって普通の趣の神社でした。

画像1:洲宮神社

案内版には丁寧な解説が記述されていたので、その一部をここで書き出してみます。

 洲宮神社は安房開拓神話にまつわる神社で、安房
 神社の祭神である天太玉命(あめのふとだまのみ
 こと)の后神、天比理乃咩命(あめのひりのめの
 みこと)を祀っています。そのためか、神社に伝
 えられる縁起では忌部一族による安房の開拓や、
 安房神社、洲官神社、下立松原神社の創建の由来
 なとか語られています。本文のうち3分の1は、
 失われた『安房古風土記』ではないかと推定され
 ています。

 この縁起の成立年代は不明ですが、「古語拾遺」
(807年成立)からの引用があり、平安時代以降
 と推定されます。別紙となっている奥書に、慶長2
(1597)年に虫食いのため、元の本から写した
 と記してありますが、現代の縁起はそれを更に後
 世写し取ったものと考えられています。

画像2:洲宮神社の案内板

案内文の中に出てくる安房神社(あわじんじゃ)はこの神社の近くにあり、ここを離れた後にそちらへも訪れました。

画像3:安房神社

こちらは安房国一宮とされる古い神社で、一般に阿波国(徳島県)から移り渡ってきた忌部氏によって創建されたと言われています。

安房神社の主祭神は天太玉命で、相殿神として皇后の天比理乃咩命、阿波忌部の祖と言われる天日鷲命(あめのひわしのみこと)など6柱が祀られています。

さて、洲宮神社ですが、拝殿の裏に回ると古びた石柱のようなものが置かれていました。そこに掲げられた案内板を読むと、元のお社は谷を挟んだ向かいの山の中にあったらしく、どうやら私が訪ねたこの場所は、江戸時代の火災の後にここに建て直されたものだと言う事が分りました。

画像4:洲宮神社の拝殿裏の石柱

またこの古びた石柱は元宮の場所にあったものを、土地開発の事情でここに移設したものだということです。

なるほど、ここでは古代の雰囲気があまり感じられないなと思ったのは、そういう事情があったからのようなのです。

画像5:館山の忌部氏ゆかりの神社群

洲宮、安房と2つの神社を回った後に海岸沿いの布良崎神社(めらさきじんじゃ)へ立ち寄りましたが、ここでは忌部の歴史を感じる非常に面白いものを見つけました。

画像6:布良崎神社の大岩

敷地内の大きな岩に、直径10㎝程度、深さ3~4㎝程度の丸い穴が幾つも穿たれているのです。同行者のG氏の話では、どうやら古代祭祀の痕跡だとのことことなのですが、いったいここではどのような祭祀が行われていたのでしょう?呪術的なものに目がない私にとってはたいへん気になる大岩でした。

ちなみに、ここの祭神は天富命(あめのとみのみこと)・須佐之男尊(すさのおのみこと)・金山彦命(かなやまひこのみこと)です。天富命は上述した天太玉命の孫とされ、やはり忌部氏の関係者であることが窺われます。

■天太玉命とは何者か?

安房の土地、そして忌部氏を理解する上で、天太玉命がどのような人物(神)であったかを知らなければなりません。

日本神話の中で、天太玉命は次の様に描かれています。

 このときに天照大神は大変驚いて、機織の梭(ひ)
 で身体をそこなわれた。これによって怒られて、
 天の岩屋に入られて、磐戸を閉じてこもってしま
 われた。それで国中常闇(とこやみ)となって、
 夜昼の区別も分からなくなった。

 その時八十万の神たちは、天の安河のほとりに集
 まって、どんなお祈りをすべきか相談した。思兼
 神(おもいかねのかみ)が深謀遠慮をめぐらして、
 常世の長鳴鳥(ながなきどり=不老不死の国の鶏)
 を集めて、互いに長鳴きをさせた。

 また手力雄神(たちからおのかみ)を岩戸のわき
 に立たせ、中臣連(なかとみのむらじ)の遠い祖
 先の天児屋命(あまのこやねのみこと)、忌部の
 遠い祖先の太玉命は、天香山の沢山の榊(さかき)
 を掘り、上の枝には八坂瓊(やさかに)の五百箇
 (いおつ)の御統(みすまる)をかけ、中の枝に
 は八咫鏡(やたのかがみ=大きな鏡の意)をかけ、
 下の枝には青や白の麻のぬさをかけて、皆でご祈祷
 をした。

講談社学術文庫 日本書紀(上)訳:宇治谷孟

有名な天照大神の岩戸隠れのシーンで、岩戸の中の天照大神を外に出すために知恵を絞ったブレーンの一人(柱)として名前が挙げられています。

当然、何かの歴史的事実の比喩と考えられるのですが、これを人物史と捉えた時、少なくとも天太玉命は、当時の中央政権において、重要なポジションを占めていた重臣であったと考えられるのです。

そうであればこそ、忌部氏がその後の朝廷祭祀族として名を馳せたのにも納得が行くのです。

さて、以上は日本書紀の記述からなのですが、人物史として上代(神武以前)を記述している秀真伝では天太玉命はどのような血縁関係として描かれているでしょうか?

画像7:天太玉命の系図(秀真伝)

この図の緑枠の中には、参考のため、天太玉命に関する他の伝承を基に、天比理乃咩命と天宇受売命(あめのうずめのみこと)を書き加えています。

フトタマは、第7代タカミムスビ王統のタカギの息子として記述されています。ところが、タカミムスビ王統は7代で終ってしまっています。フトタマ、あるいはその他の兄弟は王統を継承できなかったのでしょうか?それはいったいどうしてなのでしょうか?

ここで、これまでこのブログで主張してきた、古代日本の王権継承の仕組み

 女系による王権継承

すなわち、「少女神」と呼ばれる女性の元へ婿入りすることで王権が授けられる、いわゆる少女神仮説でこの系図を組み直してみたいと思います。

少女神仮説で書き換えたこの時代の系図は次の様になると予想されます。

画像8:フトタマの時代、王権継承の一本化が図られたのでは?

アマカミ王統とタカミムスビ王統、双方にそれぞれ女系の王権継承家系があったところを、アマカミ側がその王権の名(男性)を、タカミムスビ側が実質の継承権(女性)を保有するという協定が出来たのではないか?この図はそれを示しています。

これがフトタマの時代を巡る背景だったと私は予想するのですが、お気付きのように、記紀の記述では10代アマカミとはニニキネ、すなわち瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)でないとおかしいのです。

また、この図では素戔嗚(すさのお)、大国主と続く大物主(オオモノヌシ)王統については説明できていません。

それらを含めて、やがて、現在の皇室へと続く統一王朝となるのですが、ここに、秀真伝が伝えきれなかった王権を巡る当時の深刻な対立、あるいは混乱があったと考えられるのです。


南国の花育みし白き風 また吹く時ぞ安房の波間に
管理人 日月土

方舟と獣の数字

今回に限っては、少しだけ触れて終わりにしようと思っていたアニメ分析ですが、この鹿の子アニメ(*)には思いの外多くの歴史的情報が埋め込まれていたので、まだ文字化ができていない点について今回もまた取り上げてみようと思います。

*タイトルは「しかのこのこのここしたんたん」

「いい加減にしろよ」と思われる読者さんも多いかと思いますが、あくまでもこれは「古代史分析」の一環であり、けっして酔狂でアニメについて語っている訳ではないので(本当です)、その点はご理解いただけますようお願いします。

■背振の山から見えたもの

実は1週間程前、現地の福岡県に飛んで、もう一度アニメに関係する土地を見てきました。具体的な行先は次になります。

画像1:脊振山気象レーダー観測所
画像2:気象レーダーの地図上の位置

気象レーダーは福岡県と佐賀県の県境となる背振山の尾根伝いの登山道上にあるのですが、レーダーまでは自動車が入れるように舗装されており(一般車両は不可)、県道から歩いておよそ30分くらいの所にあります。

私も現地に入ってから気付いたのですが、このポイントからは福岡県側に博多湾、そして佐賀県側は有明海はもちろん「鹿島と木嶋と方舟と」で取り上げた杵島までが見渡せるのです。

当日は少し霞んでいて写真では見にくいのですが、以上の重要ポイントをここから写真に収めました。

画像3:気象レーダーから見下ろした志賀島と能古島
画像4:気象レーダーから見下ろした佐賀の平野と杵島

志賀島と能古島は「志賀能古(しかのこ)=鹿の子」であり、志賀の神とはどうやら大船、すなわち「方舟」を指すだろうことは過去記事で述べた通りです。

また「杵島(きしま)」とは、古代シュメール語まで遡ればキッジュ(木)マァ(舟)で木舟であり、どうやらこれが「方舟」を指すことも、過去記事で既に述べています。

つまりこのレーダー観測所の位置は、方舟伝承に関わる2つの土地が同時に見下ろせる絶好のポイントであることが分かるのです。

これは私にとっても大きな発見で、わざわざここまで足を運んで良かったと思うだけでなく、古代史においてこの脊振の山々が、当時の信仰形態がどのようなものであったのか、それを理解する上で極めて重要な場所だという認識に至ったのです。

■虎虎虎

これまで鹿の子アニメの「鹿」について多くを考察してきましたが、このアニメには「虎」の文字を冠するキャラクターが準主役として登場していることを忘れてはなりません。

画像5:虎視姉妹

もうお気付きの様に、この二人合わせたキャラ名の中には「虎」の字が3回現れています。それを抜き出すと「虎虎虎(トラトラトラ)」となりますが、この「トラトラトラ」は第2次世界大戦で、日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃する際に出された暗号文であることはつとに有名です。そう言えば同名タイトルの映画も作られていますよね。

それではどうして、真珠湾攻撃の暗号文がトラトラトラだったのか?そして、それがまた何でこのようなお気楽ギャグアニメの中に登場したのかが非常に気になります。

以下は私の考察なので合っているかどうかは分かりませんが、偶然と言うには余りにも意味的符牒が整っているので、参考までに紹介しておきましょう。

画像6:「トラ」をヲシテ文字で表記し、文字の構成要素を組み合わせる

以上のように、神代文字とも言われるヲシテ文字で「トラ」を表記し直すと、この音に隠された意味が見えてきます。そして、そこから見えてくるのは

 天地(の理)と六芒星、あるいはダビデの星

なのです。

これを意味的に日本語表現するならば

 天地(あめつち)の秘密(火水)

と読めなくもありません。

また、ここから「トラトラトラ」と「トラ」を3つ重ねた言葉に隠された意味の一つに3つの六芒星、すなわち

 666

があるだろうと考えられるのです。

ご存知の様に、666という数字は「獣の数字」として聖書の「ヨハネの黙示録」にも記述されています。

ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。

(ヨハネの黙示録 13章18節)

「鹿」からは「ノアの方舟」、そして「虎」からは「獣の数字666」、あくまでも日本古代史を扱っていたはずなのに、どちらも聖書の世界と繋がってしまうのです。一見能天気なお気楽アニメにしか見えないこの鹿の子アニメ、いったい何を企んでいるのでしょうか?

■七枝の線刻石

前回の記事「鹿と大船と祓祝詞」では、この鹿の子アニメの中で七枝のメノラー(古代ユダヤの7支の燭台)が描かれているとの指摘をしました。

画像7:アニメ中に描かれたメノラー

実はこのメノラー、日本国内の各地で見つかった線刻石や弥生式土器にも描かれていると言うのです。

画像8:下関市、彦島の線刻石(川崎真治著「日本最古の文字と女神画像」から)

古代言語の研究家、川崎真治さんによると、七枝の文様のルーツは聖書の時代を通り越してシュメール神話にまで遡ると推定されており、どうやらこれまで見てきた聖書と古代日本の奇妙な接点を理解する共通の鍵は、シュメール文明にあるようなのです。

シュメール神話に関する彫像で七枝樹が描かれる場面は、王「アン」と女王「キ」の間というのが定番のようなのですが、ここでやっと、アニメに登場した少女キャラクター(少女神の象徴)、すなわち皇后(=女王)とメノラーの関係性が見えてくるのです。

画像9:女王キ(左)と王アン(右)、中央に七枝樹
女王の象徴は左端に描かれた蛇、王の象徴は牛角の冠

ここから先は私もまだ不勉強なのでこれ以上の言及は避けたいと思いますが、このアニメの設定は、想像以上に深い歴史考証によって組み立てられているのが分るのです。


管理人 日月土

鹿と大船と祓祝詞

巷でちょっとだけ話題?にされていた鹿の子アニメ(※)を題材に取り上げて、なぜあれほどまで脈絡なしに「シカ」を強調するのか、その謎というか、原作サイドの隠された意図を、例によって日本古代史の文脈で掘り下げてみたところ、それが、

 方舟(はこぶね)

に辿り着いたことは、前回2回の記事でお伝えした通りです。

 関連記事:
 ・越と鹿乃子 
 ・鹿と方舟信仰 

 ※アニメタイトルは「しかのこのこのここしたんたん」です

残念ながらこのアニメ、先月で最終回を迎えたのですが、とにかく呪文のように怪しげなタイトルと奇妙な鹿の子ダンス、そして意味不明な設定で話を押しまくれるだけ押しまくって消えて行ってしまったようなのです。

ところが、その一見とっちらかって無茶苦茶なアニメも、整理してみると、非常によく計算された構造が見えて来たことは、上記過去記事でも述べています。

■鹿の子アニメの気になるシーン

さて、今回は同作品中の次の二つのカットを紹介しますが、どちらも、これまで本ブログで扱ってきた歴史的記号を象徴するものであると私は考えます。

画像1:鹿の角とバナナ
©おしおしお・講談社/日野南高校シカ部(画像3も同様)

鹿の子の角の中にバナナが入っている?ギャグアニメだと言われればそれまでなのですが、これに関する解釈については、実は昨年1月の記事で既に取り扱っているのです。

「バナナ」をアラビア数字で音表現すると「877」となりますが、この数字にどんな意味があるかは、以下の説明画像を見ればお分かりになるかと思います

画像2:877の記号
大空のXXと少女神の暗号」から

「877」は古代の皇后、それも特殊な巫女能力と王権継承権を有した「少女神」の象徴と解釈したのですが、この鹿の子アニメは(真)ブログ記事「角娘の降臨」でも書いたように、とにかく「角のある少女」たちが複数登場しており、すなわち「少女神」を表す記号が満載なのです。

ですから、この「鹿の角とバナナ」という珍妙な組み合わせも、これが古代日本の女系王権のことを意図的に示すものだと捉えれば、この画が非常に重要な意味を含むものと捉え直すことができるのです。

画像3:鹿の角とメノラー

「鹿の子の角は頭ごと取り外せる」という、これもまたギャグアニメのなせるナンセンスの一つなのでしょうが、この画もまた歴史的には奇妙に一致するニュアンスを含んでいるのです。それが、頭部を含め七支の突起部を持つ鹿の子の角と、古代ユダヤ教のメノラーの形状が酷似していることなのです。

ここで、「少女神」と「ユダヤ」という奇妙な関連性が導かれるのです。これまで、この2つの事象が直接関連し合うとの考察は特に行ってきませんでしたが、このアニメの構造分析を通していよいよその接点が見えて来たように思えます。

この2つの古代史トピックを繋ぐのが、おそらく「方舟」なのでしょう。聖書によるとユダヤ人十二支族が誕生したのは、ノアの方舟から更に下ってアブラハムが登場して以降のことですから、方舟伝承の方がはるかに旧いと考えられるのです。

そのユダヤより旧い伝承が日本国内に残っている。ここで、「少女神」と「方舟」の間に何か関連性があるのならば、「少女神」は日本における古代ユダヤの登場よりも前から、この国に存在していたとも考えられるのです。

■大船と祓祝詞

聖書によれば、ノアの方舟は3層構造の大きな船であることが記述されています。つまり、「方舟」は「大船」と表現されてもおかしくないのですが、実はこの「大船」は神社の祓祝詞(はらえのりと)の中に出てきます。

祓祝詞は、6月の大祓(おおはらえ)の時に神社で聞くことのある祝詞ですが、その文面は神社によって多少異なるとしても、概ねその骨子は同じように思います。

祓祝詞として有名なのが中臣祓(なかとみのはらえ)で、次にそこから「大船」が出て来る場面を抜き出してみましょう。

 高天原(たかまのはら)に神留坐(かむづまりまし)ます
 皇親(すめむつ)神漏岐(かむろぎ))神漏美(かむろみ)
 の命(みこと)を以もちて 八百万(やほよろづ)の神等
 (かみたち)を 神集(へに集賜つど)へたまひ 神議
 (かむはかり)に議賜(はかりたまひ)て 我(あが)
 皇孫尊(すめみまのみこと)をば 豊葦原(とよあしはら)
 の水穂(みずほ)の国(くに)を 安国(やすくに)と平
 (たひら)けく所知食(しろしめ)せと事依(ことよさ)し
 奉まつりき

 ・・・(中略)・・・

 如此(かく)所聞食(きこしめ)しては 罪(つみ)と云(い)
 ふ罪(つみ)は不在(あらじ)と 科戸(しなど)の風(かぜ)
 の天(あめ)の八重雲(やへぐも)を吹放(ふきはな)つ事
 (こと)の如(ごと)く 朝(あした)の御霧(みきり)夕(ゆふ)
 べの御霧(みきり)を朝風(あさかぜ)夕風(ゆふかぜ)の吹掃
 (ふきはら)ふ事(こと)の如(ごと)く 大津辺(おほつべ)
 に居(を)る大船(おほふね)の舳(へ)解放(ときはな)ち艫
 (とも)解放(ときはな)ちて大海原(おほわだのはら)に
 押放(おしはなつ)事(こと)如ごとく

 ・・・(以下略)・・・

引用元:古今宗教研究所から

この祝詞では、罪や穢れが吹き流され清められる様を、大きな船が風を受けて大海にさっそうと乗り出す情景に例えて比喩的に表現されていると読めます。

私も「何でここで船なんだろうな?」と長らく疑問ではあったものの、祝詞全体の調子によく合っているのか、それ以上は特に疑問を感じることはありませんでした。

しかし、今回「鹿」(シカ)と「方舟」の関連性に気付いてから、この祝詞の捉え方が大きく変わったのです。そして、こう思うようになりました。

 日本は方舟伝承の当時国なのでは?

と。

大祓は元々6月と12月に朝廷で行われていた行事であり、それはすなわち、国家全体の罪や穢れを祓い清める儀式であることを意味している訳で、その国家的行事で奏上される文言の中にしっかりと遠い昔の「方舟」の記憶が盛り込まれているのですから。

繰り返しになりますが、聖書と日本書紀、中臣祓祝詞の方舟に関係するとされる箇所を比較すると

 聖書  : 3層構造の方舟
 日本書紀: 底・中・表の3人の海神(シカの祭神)→ 3層構造
 中臣祓 : 大船

となります。これがどう繋がるかは、前回・前々回の記事を参考にしてください。

■鹿の子アニメの狙いは?

鹿の子アニメを我慢して視聴し、古代史と照らし合わせながらここまで見てきましたが、この作品には思わぬ意図が隠れていることが分かって来ました。

読者の皆さんが関心を抱くのは、これまでの私の分析が仮に正しいとして、どうしてこのアニメを世に出して来たのかという点だと思います。

原案者の真意を正確に把握することは非常に難しいのですが、ある程度推測することは可能です。その真意を測る上で非常に大事なキーワードが実はこの「方舟」なのです。

そもそも方舟は何のために作られたのでしょうか?それを考えた時、このアニメを制作した側の狙いが朧気ながら見えてくるのです。

もう一つのヒントは、シカ(志賀)の神とは別名「穂高見命」(ほだかみのみこと)であることです。すると次のキャラクターが登場したあの有名アニメ映画が思い出されるのですが覚えておられるでしょうか?

画像4:右側の少年キャラは誰?

そして、この映画のラストシーンがどうであったのかをもう一度思い出すと、鹿の子アニメの真の狙いがこの映画のメッセージと同じであることに気が付くのです。


鹿は藤原光る君虎に翼の虎視眈々
管理人 日月土

埼玉県とサキタマ姫

前回の記事「サキタマ姫と玉依姫」では、埼玉県行田市にある前玉神社(サキタマ神社)の御祭神、前玉姫(サキタマ姫)について、古事記の記載からはその素性が追えないとしましたが、その後、その記述を再解釈することにより、その様子が朧気に見えてきました。

画像1:前玉神社(画像引用:Wikipedia

本件については、4月16日配信のメルマガ100号「記事解説」で既に触れていますが、改めてそれについてここで述べたいと思います。

■古事記の中の前玉姫

まずここで、前回でも引用した古事記の本文を再度ここで掲載します。

大国主神、また神屋楯比売(かむやたてひめの)命を娶して生みし子は、事代主神。また八島牟遅能(やしまむぢの)神の女(むすめ)、鳥取(ととりの)神を娶して生みし子は、鳥鳴海(とりなるみの)神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてるぬかたびちをいこちにの)神を娶して生みし子は、国忍富(くにおしとみの)神。この神、葦那陀迦(あしなだかの)神、亦の名は八河江比売(やがはえひめ)を娶して生みし子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみの)神。この神、天之甕主(あめのみかぬしの)神の女、前玉比売を娶して生みし子は、甕主日子(みかぬしひこの)神。

岩波新書 古事記(上) 神代 大国主神「大国主の神裔」より

これは大国主から続く系譜を、その皇后と共にただ名前を書き綴っただけであり、ここに登場する前玉姫がどのような方であるのか、これだけでは知る由もありません。

これを、系図に落とすと次のようになります。

画像2:古事記から作った系図

但し、系図に落してみると、少々気になる点があることに気付きます。それは図中の矢印で示した「甕」(みか)の文字なのです。

「甕」が家系を表す何かの記号ならば、前玉姫の父とその夫に同じ文字が使われているのは釈然としません。もちろん同族ということはあるのかもしれませんが、それならば、国忍富より前の代にその文字が全く使われていないのはどういうことなのでしょうか?

前からお伝えしているように、現在残されている史書は全て改竄されたものと見る必要があるのですが、それでも正史が消滅しないように、史書編纂者はそれと分るサインを文中に残していると私は考えています。

それが、私が

 史書は暗号の書

と呼ぶ理由なのですが、するとこの「甕」の文字の配置は、まさしくこの系譜に加えられた改竄の跡を示す記号とは考えられないでしょうか?

■系図の少女神解釈

「皇統は女系によって継承される」、これは本ブログの歴史解釈で採用している「少女神解釈」であることは、本ブログの読者様ならもはや説明は不要でしょう。

「ヤタ娘」ウラ本のお知らせ

本ブログの古代史解釈に大きな影響を与えた、みシまる湟耳氏著の「少女神 ヤタガラスの娘」。その完成に至る著者の思考や背景を暴露?した本

 正規ウラ本「ヤタガラスの娘」への旅と禁忌

が今年の1月に発刊されています。

その中身については正式な書評として取り上げたいと考えていますが、ここに記載された神社旧跡の多くに私も訪れていたこと、そして調査妨害とも思われる身の周りに起きた不可思議な出来事などについては、同じ経験を有する者として私も大いに共感したとここでお伝えしておきましょう。

電子書籍もあるようですが、私としてはペーパーバック版でじっくりと読まれることを強くお奨めします。


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また、秀真伝(ほつまつたえ)の記述では、古代期には現皇統の他に「オオモノヌシ」と「タカミムスビ」の2皇統が別に存在していたとあります。

ここで、他の2皇統についてその王権継承がどのように行われていたかが気になるのですが、秀真伝によると現皇統と同じく男系継承であったように記述されています。

3つの皇統の内、1つだけに女系継承を適用するのも少々強引であり、もしも少女神解釈を適用するならば、他の2皇統も同じ様に女系継承であったと仮定するのがむしろ自然ではないでしょうか?

つまり、画像2で示したいわゆる出雲皇統(オオモノヌシ皇統)も女系継承に変換する意味は十分あると考えられます。そして、同系図において男女の位置を交換すると次のようになるのです。

画像3:女系変換した古事記の系図

この系図では、女性を「緑」、男性を「赤」字で記述しています。注目して頂きたいのは、この変換処理によって、前述の「甕」の字が男系の系統を表す記号としてすんなりと理解できるのです。

この図が示す意味は2つあり、一つは出雲皇統も前玉姫までは少女神なる女系によって王権継承が行われていたのではないかという見方、二つ目には、甕主日子からそれが男系による王権継承に切り替わったのではないかという見方もできるのです。

前回記事では 

 タマサキ姫 = サキタマ姫 = 玉依姫

という関係性を採用しましたが、ここで埼玉の前玉姫を文字通り、三嶋神の第3皇后であるサキタマ姫と同一人物とした時、この変換系図の人物の関係性は次の様に導かれるのです。

画像4:変換古事記系図の対応人物

この図は伊古奈姫神社の伝承や、三島八王子など三宅記における複雑な血縁関係からはかなり単純化されていますが、それでも

 神武天皇がどのように誕生したのか

その家系を見事に説明しているとも取れるのですが如何でしょうか?

何故なら、古事記がどうして「甕」(みか)の文字を記号として選んだのか、その理由がここから見えてくるからです。「みか」とはつまり「かみ」(神)の変形であり、すなわちこれが「神武天皇」の(男性)血統を表しているとするならば、少なからず合理性が認められるからなのです。

同時にこれは、日本神話で「彦火火出見」(ひこほほでみ)とされる

 三嶋神こそが、現皇室の男系王家を生み出した

その祖であることも示しているのです。

この三嶋神がいったいどこから来た何者なのかは不明ですが、少なくともそれより以前のアマテルカミ(天照)時代の王家とは(男系的に)直接関係ないのは確かでしょう。三嶋神に王権を与えたのはやはり日本に先住していた少女神なのです。

■ダサイタマは失礼?

前回の記事で、前玉神社の読み「サキタマ」が現在の埼玉県(さいたま)の命名の元になったという話を紹介しましたが、これを、単純に埼玉の一小神社の名をもじって付けたとしたならば、あまりにも大抜擢過ぎて説明が付きません。

しかし、前玉姫が現皇室の租と言われる神武天皇の母君、玉依姫その方であるなら話は全く変わってきます。一転、埼玉県は何と尊い名をその県名に掲げたのかということになるのです。

これからはもう「ダサイタマ」などと埼玉県民を貶める発言は控えるべきなのではないでしょうか?(私はそんなことを言ったりしませんが)

これの他に、画像4の系図の中には「鳥取」の名が記されています。明らかに少女神の系統に座する皇后なのですが、この「鳥取」が埼玉県同様に県名になっていることはもちろん、私が気になるのは次の方なのです。

画像5:高円宮憲仁親王妃久子さま

久子さまは四国の鳥取家出身であること、そしてそのお嬢様である典子さんが、出雲大社の禰宜、千家に嫁いだことには、古代期だけに留まらないこの国の深い因縁を感じてならないのです。


四月二十九日 昭和の日に寄せて
管理人 日月土

サキタマ姫と玉依姫

今年1月30日の記事から前回3月30日の記事まで、2020年に不審な亡くなられ方をした俳優の三浦春馬さんについて、その死の意味について古代史的な考察を行ってきました。

 (1) 三浦春馬と馬鹿(1月30日) 
 (2) 竹内結子と鹿の暗号(2月15日) 
 (3) 三浦春馬と猿の暗号(2月27日) 
 (4) 三浦春馬のカネ恋と少女神(3月15日) 
 (5) 3人の三島とひふみ神示(3月30日) 

思いの外同じテーマが続いてしまい、手元にある材料も出尽くした感があるので、そろそろ別のテーマをとも思いましたが、まだ一つだけ気になる点が残っていましたので、今回もそちらについて話を続けたいと思います。

それはやはり、上記(4)・(5)の春馬さんが最期に出演したテレビドラマ「おカネの切れ目が恋の始まり」の最終第4話に関わるものとなります。

■サキタマ姫とは誰なのか? – 前玉神社

上記(4)の記事の中で、三嶋神の第3皇后として「佐岐多麻比咩」(サキタマ姫)が登場し、この方が伊豆七島の三宅島で三島八王子を産んだとの伝承があることをお伝えしました。

そして記事(5)では、その内の三人が後の天皇家(男性王)の祖となり、もしかしたら3人が同時に天皇として即位しているのではないかという、ちょっと突拍子もない結論が導かれたのですが、それは単なる私の妄想ではなく、現代に書き残されている記録からその様に読み解いたものなのです。

要するに、陰謀論界隈では時たま話題になる「裏天皇」が本当に実在するのではないかという話になるのです。

この件を確かめるためには、「三宅記」に登場する三島八王子の母「サキタマ姫」がどのような方なのかを歴史的に追う必要があります。

実はこの「サキタマ姫」を祭神に祀る神社が埼玉県の行田市にあるのです。それが「前玉神社」(さきたま神社)なのですが、同社のホームページによると、埼玉県の「さいたま」はこの「さきたま」が訛って付けられとの説まであるようなのです。

画像1:埼玉県行田市の前玉神社

この神社は、行田市内にある有名な「埼玉古墳群」の一角にある、やはり古墳と思われる小山の上の狭いスペースに鎮座しており、その様な理由から、社殿の全体写真が非常に撮影しにくく、画像1のようなアップ画像しか撮れませんでした(2020年6月撮影)。

撮影当時は「埼玉の名前の由来になった神社かも?」ということ以外には特に意識していませんでしたが、ここに来て再び「さきたま」に遭遇することになったのは少し意外な気がします。

そこで、前玉神社のホームページから、由緒と御祭神の記述を抜粋します。

御由緒

前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。

前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。

武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。

北武蔵国の地元豪族が眠ると思われるさきたま古墳群の真上に建てられています。

https://sakitama-jinja.com/%e5%89%8d%e7%8e%89%e7%a5%9e%e7%a4%be/%e5%89%8d%e7%8e%89%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e5%be%a1%e7%94%b1%e7%b7%92/

御祭神

前玉神社の御祭神は、『古事記』所載の出雲系の神である、前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱です。天之甕主神(アメノミナカヌシノカミ、アマノミナカヌシノカミ)の子で、甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)の母です。

https://sakitama-jinja.com/%e5%89%8d%e7%8e%89%e7%a5%9e%e7%a4%be/%e5%89%8d%e7%8e%89%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ae%e5%be%a1%e7%a5%ad%e7%a5%9e/

また、この「御祭神」の箇所に書かれた古事記の原文には次のように記載されています。

大国主神、また神屋楯比売(かむやたてひめの)命を娶して生みし子は、事代主神。また八島牟遅能(やしまむぢの)神の女(むすめ)、鳥取(ととりの)神を娶して生みし子は、鳥鳴海(とりなるみの)神。この神、日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてるぬかたびちをいこちにの)神を娶して生みし子は、国忍富(くにおしとみの)神。この神、葦那陀迦(あしなだかの)神、亦の名は八河江比売(やがはえひめ)を娶して生みし子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみの)神。この神、天之甕主(あめのみかぬしの)神の女、前玉比売を娶して生みし子は、甕主日子(みかぬしひこの)神。

古事記 神代 大国主神「大国主の神裔」より
※正しくはアメノミカヌシノカミ、アマノミカヌシノカミだと思われます

これを読むと、大国主から4代目、つまり曾孫の嫁と言うことになりますが、世代的には三嶋神と推定される、彦火火出見の代と合っています。

ただし、古事記の記述は男系継承に基づいて記述されており、サキタマ姫の出自は天之甕主の娘というだけでそれ以上は追えません。なおかつ、日本書紀にはもちろん秀真伝にも記述がなく、やはりここからも追えないのです。

ここまでで分かるのは、サキタマ姫は大国主の曾孫の嫁に入った女性というだけで、その夫である速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみの)神の正体も不明なのです。こうなると、この神社の御祭神である前玉姫が三島八王子を産んだサキタマ姫と同一人物かどうかも分からないのです。

■サキタマ姫とは誰なのか? – 玉前神社

埼玉の前玉神社の場合はストレートに名前が合致していたのですが、残念ながら三島のサキタマ姫との関連はこれ以上探れません。ところが、「さきたま」を「たまさき」と少し変形させると、実は別の神社が現れてくるのです。それが千葉県の外房海岸沿いに鎮座する神社、「玉前神社」あるいは「玉崎神社」なのです。

画像2:千葉県内のタマサキ神社群(Google Map 上の検索)
画像3:旭市の玉崎神社

この中で、一之宮町の「玉前神社」、旭市の「玉崎神社」へは調査に向かったことがあるのですが、どちらの神社もその御祭神は

 玉依姫(たまよりひめ)

であるということなのです。

三嶋神あるいは彦火火出見尊の皇后が豊玉姫であり、次の王位継承者であるウガヤフキアワセズ王の皇后が玉依姫ですから、三島との関係は埼玉のサキタマ姫よりはぐっと近くなります。

ここで、過去記事「伊古奈姫と豊玉姫、そして123便」を読み返して欲しいのですが、ここでは

 豊玉姫 = 伊古奈姫

という関係を導き出しています。そして、第2皇后の伊古奈姫に対する本后として阿波姫の名とその阿波姫の娘である

 物忌名姫(ものいみなひめ)

が居たこともお伝えしています。

私が採用している少女神仮説においては、女系による王権継承という立場を取っているので、当然この物忌名姫にも王権継承権が与えられていると考えられます。

ここで、過去記事では取り扱わなかった「物忌名姫」の存在が大きくクローズアップされるのです。

以下は、これまでの幾つかの仮説の上で展開されていることを前提にお読みください。

 ・サキタマ=タマサキという関係を認めるなら
  三嶋神の第3皇后であるサキタマ姫とは玉依姫のことである

 ・三嶋神の本后阿波姫の娘である物忌名姫とは玉依姫のことである

これはつまりどういうことなのか?3人の三島王との関係を含め、それを図に表したのが以下の系図になります。

画像4:三嶋神を巡る姻戚関係

配色など、この図についてはもう少し説明しなければならないこともあるのですが、それについてはメルマガの記事解説でお伝えしましょう。

なお、私はこれこそが現皇室の始まりを示す本当の姿であると考えています。

よく旗印みてよと申してあろがな、お日様 赤いのでないぞ、赤いとばかり思ってゐたであろがな、まともにお日様みよ、みどりであるぞ、お日様も一つでないぞ。ひとりまもられているのざぞ。さむさ狂ふぞ。

ひふみ神示 カゼの巻 第2帖


管理人 日月土

三浦春馬のカネ恋と少女神

三浦春馬さんの話題が続き、今回でかれこれ連続4回目の記事となります。

ここでは、前回に続いて春馬さんが最後に出演したドラマ「おカネの切れ目が恋の始まり」(カネ恋)に表現されたシーンについて深掘りします。対象となるのは最終回第4話です。

■未完のドラマの最終話

カネ恋は、その撮影中に主演の三浦春馬さんがお亡くなりになられたため、ドラマとしては未完のまま終了します。

最終回の第4話では、春馬さん演じる猿渡慶太が家を出たきり帰って来ないという設定の下、他の出演者が慶太の思い出話を語るという筋書きで話が進み、皆で慶太の帰りを待つというエンディングを迎えます。

この中で、ドラマのヒロイン九鬼玲子が、少女時代に家を出た父に合う為に、伊豆半島の下田を訪ねるというストーリーが、話の中核として展開します。

さて、伊豆半島、それも下田と聞いただけで私は「おや?」と思ってしまうのですが、どういうことかと言えば、下田は過去記事「伊古奈姫と豊玉姫、そして123便」で取り上げたように、少しいわくつきの場所なのです。

しかし、下田に到着する前に、玲子は同伴していた板垣純を電車に残し、駅売りの「いかめし」を買いに出て、案の定電車に乗り遅れるのです。

画像1:伊豆急行「片瀬白田」駅で「いかめし」のぼりを見つけた玲子

正直、このシーンでは、駅のホームで「いかめし」をほおばりながら次の電車を待つ玲子が映されているだけで、これがなくてもドラマの展開にまったく支障がないのです。

これは何かあるなと思い、Googleマップで同駅の周辺を調べたところ、「神社」による検索で次のような結果を得ました。

画像2:片瀬白田駅周辺の神社

この2つの神社は次の様に読みます。

 ・志理太乎宜神社(しりたおぎ神社)
 ・片菅神社(かたすけ神社)

祭神はそれぞれ、

 ・志理太乎宜命
 ・片菅命

で、祭神名がそのまま神社の名前になっています。

実は「片瀬白田」という駅名は片瀬(=片菅)と白田(=志理太乎宜)の名前を合わせて作られているようなのです。

聞き慣れない神名なのですが、鎌倉時代末期に編纂された「三宅記」の伝承によると、三嶋大明神の第3皇后である佐岐多麻比咩命(さきたまひめのみこと)が三宅島で産んだ8人の王子、その中の2人であるということです。

元々は三宅島に祀られていた神様だったのですが、分霊されてこの地の社に置かれたということです。

両神社については、Shrine-heritagerさんのページにたいへん詳しいので、ぜひそちらをご覧になってください。

 ・Shrine-heritager 志理太乎宜神社 
 ・Shrine-heritager 片菅神社 

どうやら、この駅周辺の主要な神社はこれだけのようなのですが、お気付きの様に、三嶋神とは昨年しつこく考察を続けた神名で、一般には「事代主」のことだと思われがちですが、分析の結果、どうやら、

 三島大神=三島湟咋=彦火火出見=賀茂建角身

が同一神(あるいは同一人)を指していることが分かっています。詳しくは「三嶋神と少女神のまとめ」をご覧になってください。

この考察の中で、下田の伊古奈姫神社の祭神である伊古奈姫が三嶋神の第2皇后であり、三嶋神の正皇后とされる豊玉姫とは、双子の少女神の関係であったのではとしましたが、困ったことに第3皇后(佐岐多麻比咩)がここに登場し、更に複雑なことになってしまいました。もしかしたら、三つ子の少女神も考慮に入れる必要があるのかもしれません。

さて、玲子の最終目的地である下田が三嶋神の第2皇后「伊古奈姫」を指しているとすれば、途中下車した片瀬白田は、その皇子を通して間接的に第3皇后「佐岐多麻比咩」を指しているのではないかと考えられます。

要するに、カネ恋第4話は、そのロケ地を通して

 少女神

のことを何か伝えようとしていると考えられるのです。

■東南の角と伊豆七島

カネ恋のドラマ設定に関する分析を記した真ブログ記事「三浦春馬の死とカネ恋の呪い2」、では、登場人物名に埋め込まれた干支による方位の解析から、東南の角が開かれている、あるいは東南の方角を指していると分析されましたが、この方位による解析を地図上の伊豆半島に適用すると次の様になります。

画像3:伊豆半島東南の島々

記録では、伊古奈姫は神津島、佐岐多麻比咩は三宅島に移されたと伝えられていますが、伊豆半島のだいたい東南側にこの両島は位置するのです。

実は、この無駄とも言える玲子の「いかめしシーン」には、問題の二つの島がピタリとアングルに収まるカットも含まれているのです。

画像4:玲子の座った場所がほぼ三宅島の方角を指す

美しい伊豆の海を映像化したかったから?それならば、送電線だらけの駅ホームをわざわざロケ場所にしなくても、撮影に適した場所はいくらでもあります。

つまり、カネ恋第4話は三嶋神(あるいは彦火火出見)が婿入りした少女神を強く意識しているのは間違いないであろうと私は捉えるのですが如何でしょうか?

三浦春馬さんに関しては、これ迄の分析から次のキーワードが抽出されました。

 ユダヤ:イッサカル族(馬)、ナフタリ族(鹿)
 猿田彦と猿女
 少女神(三嶋神の皇后)

そして、竹内結子さんからは次を得ています。

 ユダヤ:ナフタリ族(鹿)
 古代タカミムスビ王統

どうやらお二人の不審な死に方には、古代日本に関わるとんでもない秘密、あるいは呪いが込められている様なのですが、今回の分析により、2020年に起きた著名人の不審死リストにもう一人の人物を加える必要があることに気付きました。

それについては、次回以降お知らせいたしましょう。


管理人 日月土

日本神話と鹿児島(2) – 吾平山上陵 –

前回記事「日本神話と鹿児島」では、鹿児島県内にある「神代三山陵」の内、霧島市内にある「髙屋山上陵」(たかやさんりょう)について取り上げました。

今回は、4年前に訪れた大隅半島中部の鹿屋(かのや)市にある「吾平山上陵」(あいらさんりょう)について、少し古くなった記憶を辿ってお伝えしたいと思います。

■吾平山上陵に眠る王

前回もお伝えしましたが、鹿児島県の神代三山陵に眠るとされる神代の王は次の様に比定されています。

 (1)可愛山陵 : 瓊瓊杵尊   (ににぎのみこと)
 (2)髙屋山上陵: 彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
 (3)吾平山上陵: 鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)

記紀に拠れば、(1)から(3)までこの順で血が繋がっていることになっていますので、これに従うと、吾平山上陵の被葬者は彦火火出見尊の子である鸕鶿草葺不合尊となります。

これについては、現地の案内にもはっきりとそう書かれています。

画像1:宮内庁による御陵の説明

吾平山上陵を訪ねたのは10月の中頃ですが、鹿児島の秋は遅く、山の緑はまだ青々としていたのを覚えています。

御陵は、姶良川(あいらがわ)が流れる岸辺の岩屋の中にあるとされ、山間の落ち着いた雰囲気と川のせせらぎが奏でる心地よい音が見事に調和しており、さすが「小伊勢」と呼ばれるだけの清冽な厳かさを感じることができます。

画像2:御陵までの遊歩道
画像3:岩屋の入り口

前回の髙屋山上陵は鬱蒼とした木々に覆われていましたが、こちらは川に沿ってよく整備された歩道が続き、散策するのにもたいへん気分が良い所であるとの印象を受けました。

美しい自然を見ながら、1000年以上前のこの国の古代に思いを馳せることができるなんて「何と最高なのだろう!」と当時は思ったのですが、日本神話研究を始めた今となっていは、この御陵の存在について単純にそうも言ってられなくなってきました。

■再び少女神仮説

ここでまた、瓊瓊杵尊から神武天皇までの4代を少女神仮説で表した例の系図を見てみましょう。

画像4:少女神仮説による系図
過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」より

繰り返しとなりますが、少女神仮説では「女系による王権継承」を核としていますから、記紀が伝えるところの、

 彦火火出見尊(父) ー> 鸕鶿草葺不合尊(子)

という関係は必ずしも成立しません。これを実の父子と表現した記紀編者の意図とは、

 女系継承を男系継承に置き換えるため

であると考えるのです。

何故そのような改竄をわざわざ施すのかという問題については、また別のところで精密に考察したいと思いますが、男女の役割を逆転させる、それも為政者の権限に関してと言うことは、社会全体の価値観が大きく変わるということであり、それはSDGsの導入で社会の在り方に大きな見直しを迫られている現代社会を見れば、古代社会においてはそのインパクトが凄まじく大きかったであろうと容易に想像が付くのではないかと思います。

このことは、もはや歴史改竄の理由を述べているとも言えるでしょう。即ち、古代社会の在り方、価値観・歴史感をガラリと変えなければならない必然性がこの国の歩んだ歴史のどこかで生じたことを意味します。

そうなると、「鸕鶿草葺不合尊とは本当は誰なのか?」が大きな問題となるのですが、これまで史書類の表記の揺らぎなどを分析した結果から、画像4に記してあるように

 鸕鶿草葺不合尊 = 大物主 = 八重事代主 = (丹塗矢)

であることが分かっているのです。少女神仮説においては、もはや彦火火出見尊と鸕鶿草葺不合尊が実の親子であることを念頭に入れる必要などなく、純粋にこの等式の意味を考えれば良いことになります。

■大物主とは誰か

史書の一つ「秀真伝」(ほつまつたえ)に拠ると、「大物主」(おおものぬし)とは個人の名ではなく、大国主命(おおくにぬしのみこと)から代々継承された王統名であるとされています。大国主の血統ですから、同時にそれが出雲の王統であることを示します。

いわゆる世襲名のようなもので、「第□代大物主 〇〇命」のように表現されます。ここから、大物主でもある鸕鶿草葺不合尊とは

 出雲王統の誰か

という予想が成立し、もう一つの名である「八重事代主」とは、秀真伝の系図によるとまさに、「第3代大物主 ミホヒコ」の息子とされているので、大物主の家系として遜色がないのです。

すると、吾平山上陵の主はとりあえず「第3代大物主の息子 八重事代主」ではないかと予想が付くのですが、実はそれでは未だ釈然としない問題があるのです。

どういうことか?

鹿児島県には出雲系の神社と言われる「諏訪神社」が比較的多く置かれているのですが、諏訪神社の祭神とは、出雲から信州に逃げたと言われる

 建御名方命(たけみなかたのみこと)

なのです。諏訪神社は吾平山上陵の近くにも鎮座しています。

信州の神様を祀る神社が南国鹿児島に多い?一応出雲系の神様ではあるのですが、建御名方命の後の系統は秀真伝にも書かれておらず八重事代主との系図上の関係も不明なのです。

ここをクリアにしない限り、単純に吾平山上陵の被葬者を「八重事代主」に比定できないと言うのが今の私の考えなのです。


管理人 日月土

日本神話と鹿児島

(真)ブログ及び(新)ブログでもお伝えしているように、先日、鹿児島へ行ってきました。今回は、そこで見てきたものについてレポートしたいと思います。

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■鹿児島残る神代の遺構

日本古代史の研究において、九州内における古墳などの遺跡類と言えば、まずは福岡、次に熊本・宮崎などを思い浮かべますが、九州の最南端、鹿児島についてはあまりそのような話は聞こえてきません。

勿論、調べれば普通に遺跡類はあるのですが、神武天皇の出征の地と言われる宮崎や、記紀で何かと登場する博多湾周辺や大宰府、そして装飾古墳で有名な熊本などに比べれば、知名度はそれほど高くないと思われます。

ですから、鹿児島と言えば、もっぱら島津藩が活躍した江戸時代以降から幕末・西南の役の頃くらいまでが話題の中心となるのですが、このような敢えて鹿児島の古代史に触れようとしないとも見える現状については、以前から少し疑問に感じていたのです。もちろん、単に優先順の問題だけなのかも知れませんが。

今回の調査に当たり、鹿児島の古代史を理解する上で、特に重要な鍵となるのが同県内に位置する次の遺跡・遺構です。

 (1)可愛山陵  (えのみささぎ) 薩摩川内市
 (2)髙屋山上陵 (たかやのやまの えのみささぎ) 霧島市
 (3)吾平山上陵 (あひらのやまの えのみささぎ) 鹿屋市

これらに関連する場所として、霧島市と宮崎県都城市内との境界付近にある

 (4)高千穂の峰 霧島市・宮崎県都城市

も挙げておきたいと思います。

画像1:神代三山稜と高千穂の峰

(1)~(3)まではいずれも鹿児島県内にあり、合せて「神代三山陵」と呼ばれているそうです。その被葬者として比定されているのが、それぞれ日本神話に登場する次の有名な人物(神?)となります。

 (1)瓊瓊杵尊   (ににぎのみこと)
 (2)彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
 (3)鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあわせずのみこと)

日本神話においては、(1)が地上に降臨した最初の神で、(2)、(3)がそれぞれ、子、孫と代を重ねます。そして、(3)の子に当たるのが初代天皇となる神武天皇であり、この系図だけ見ると、まさに神代の超重要人物(神?)が勢揃いなのです。

そして(4)の高千穂の峰については、(1)の瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に降り立った山とされていますが、この神話の史実的解釈については既に過去に取り扱っているので、そちらの記事をご覧ください。

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なお、これらの方々が、神なのか人物なのかという点なのですが、御陵(みささぎ)=墓という実体を以って祀られている以上、私は全て実在した人物と捉えるべきだと考えますし、以前からお伝えしているように、史書の一つ秀真伝(ほつまつたえ)では、明らかに実在人として表現されていることから、ここから先は人物として扱うことにします。

4年前に鹿児島を訪れた時には(3)の吾平山上陵を、そして今回は(2)の髙屋山上陵を見て回りました。ここでは、(2)の髙屋山上陵を視察した感想をお伝えすることにしましょう。

■彦火火出見尊

以下が現地で撮影した髙屋山上陵の正面です。現皇室の租という話ですから、宮内庁が管轄する御陵となっています。

画像2:髙屋山上陵
画像3:宮内庁管轄御陵

さて、ここに眠るとされる彦火火出見尊ですが、このような難しい名前よりも、子供の時に読み聞かされた方も多いであろう日本神話に出て来る「山彦」(やまひこ)の名の方が良く知られているかもしれません。世に知られる「海彦・山彦伝説」です。

それがどんなお話であったか、ここではまず粗筋を思い返すことにしましょう。

昔、海彦(兄)と山彦(弟)という兄弟がいた。海彦は海で漁を、山彦は山で狩りをそれぞれの生業としていた。

ある日、兄弟はそれぞれの仕事道具である釣り針と弓矢を交換し、海彦は山に狩りへ、山彦は海へ釣りに出かけたが、二人とも成果はさっぱりであった。

お互いの道具を返す段となったとき、山彦は海彦の大事な釣り針を海に落としたことに気付いた。海彦は大層怒り、山彦が自らの剣を溶かして作った代わりの釣り針も受け取らず、「同じものを返せ」と迫った。

海辺で途方に暮れていた山彦の前に翁が現れ、事情を話すと、籠に乗るよう促され、籠は海に流されると沈み、龍宮城へと辿り着く。

山彦は龍宮城で美しい姫と出会い、しばらく時を過ごすが、地上に戻るに当たり、失くした釣り針について竜宮城の神に尋ねたところ、ある魚の口に引っかかっていたのが分かる。

それを持って地上へ発つとき、龍宮城の神は2つの玉を山彦に渡す。潮干玉(しおひるたま)と潮満玉(しおみつたま)で、潮干玉は水を引かせ、潮満玉は水を満たす力があり、兄に意地悪された時にはそれを使って兄を困らせろと言う。

地上に戻った山彦は、2つの玉を使って兄を溺れさせるなど懲らしめ、兄の海彦は、命の懇願として今後山彦に従うと約束する。

どうでしょうか、この話を覚えていらっしゃる方は多いのではないかと思います。どこか荒唐無稽であり、神話と言うよりもおとぎ話に近いと感じられたことでしょう。

こんな話が日本の正史を記述したとされる日本書紀や古事記に、神代の記録、それも現皇室の先祖の記録として本当に書かれているのですから頭が混乱します。

当然、これらを文字通りに受け取る訳にはいかず、何かの歴史的事実を寓話的に脚色したものであると考えざるを得ないのです。

日本書紀に拠ると、これらの登場人物はそれぞれ次の様になります。

 海彦:火酢芹尊(ほすせりのみこと)
 山彦:彦火火出見尊
 翁 :塩土老翁(しおつちのおぢ)
 龍宮の神:海神の神(わたつみのかみ)
 姫 :豊玉姫(とよたまひめ)

このストーリーから窺える重大事象の1つは

 火酢芹尊と彦火火出見尊が争った

次に、

 塩土老翁と海神の神が彦火火出見尊に加勢した

そして、私が最も重要視するのが

 彦火火出見尊は豊玉姫を娶る

という点なのです。

■少女神豊玉姫

本ブログでは、これまで少女神仮説に基づいて古代王朝の成立過程について考察してきましたが、この海彦・山彦の神話の中に少女神の継承者と考えられる「豊玉姫」が登場したことにより、やはりこの仮説によって実際の史実が解明できるのではないかと考えるのです。

画像4:過去記事「三嶋神と少女神のまとめ」より 

少女神仮説の中核は「女系による王権継承」ですから、火酢芹尊や彦火火出見尊が誰の子であるかは、日本の王権とは直接関係しないのです。ですから、王位継承者の二人が争ったとする記紀の男系継承的な解釈は当てはまらず、そこにはひたすら「二人の男性による姫の奪い合い」があったと考えるべきなのです。

話の筋道から考えると

 海の支配者は元々火酢芹尊であった

と考えられ、それを味方の加勢を受けた彦火火出見尊が奪い取り、姫と同時に海の支配権を略奪したとも読めるのです。

画像4の記述で大事なのは、これまでの考察から彦火火出見尊が、三嶋湟咋(みしまみぞくい)もしくは賀茂建角身(かものたけつぬみ)と同一人物であると考えられることであり、この時に三嶋一族、あるいは賀茂建角身の別名である八咫烏(やたがらす)がこの国の中枢に侵入した事実を物語っているとも取れるのです。

そうなると、王権を剥奪され従者と成り下がった火酢芹尊とはいったい誰なのかが問題になるのですが、その答は日本書紀の次の節に書かれていると私は考えるのです。

始めて起こる烟(けぶり)の末より生り出づる児を、火闌降命(ほのすそりのみこと)と号(なづ)く。是(これ)隼人等が始祖(はじめのおや)なり。

日本書紀 神代下
画像5:隼人塚(霧島市)
書籍のご案内

当ブログで頻繁に取り上げている「少女神」という概念は、みシまる湟耳(こうみみ)氏による著書「少女神 ヤタガラスの娘」(2022/1/28 幻冬舎)によってインスピレーションを受けたものです。ブログ記事を読み進めるためにも、まず初めにこちらをお読みになられることを強くお勧めします。



この本を読むことで、日本国民が天皇家の成立ちについて誤解していること、あるいは意図的に誤解させられている事実に気付くはずです。

この本の出版が露骨に妨害されている動きが見られます。みシまる氏の今後の活動を応援する為にも、ぜひとも新刊での購入をお願いします。



髙屋山見下ろす隼人の御土地は守り鎮めし神の賜物
管理人 日月土