伊古奈姫と豊玉姫、そして123便

今回の記事を読み進める前に、まず次の写真を見て頂きたいと思います。

画像1:123便内から地上を見た写真

以前から(新)日本の黒い霧ブログを読まれてきた方なら、一目でこの写真が何かお分かりになったかと思います。これは、1985年8月12日、羽田空港から大坂伊丹空港に向けて飛んだ日本航空123便の機内で撮られた写真です。

撮影場所についてはメディアで様々言われていますが、私の行った現地調査の結果では、これは

 東に向かう高度600~1000mの低高度から
 伊豆半島東岸の白浜海岸付近を撮影したもの

と結論が出ています。

方角については、この撮影者とその家族が機体の後方右寄りに着座していたこと。高度については、窓から見える地上の景観から数学的に計算して割り出したものです。

一般には、この写真は「高度4000m以上の高度から相模湾を見下ろしたもの」とされていますが、その説明が間違いであることは、この写真が窓枠の少し手前から撮影したものにも拘わらず、窓の中央部まで地上の景色が写り込んでいることから分かります。

4000mの高度では、窓から下を覗き込まないと地上の景色は見えません。それは普段飛行機を利用している方なら直ぐに確認できるはずです。

要するに、123便は相模湾上空をかなり低い高度で東に向かって飛んでいたことになります。その事実は、公表されているボイスレコーダー(CVR)やフライトレコーダー(CFR)では全く確認できないのです。つまり、

 CVRもCFRも本事件解明の資料とは成り得ない

有体に言えば、どちらも改竄された上で公開されているという結論になり、私がこれらの公的資料を一切用いないのもその点に起因するのです。

これらの調査の経緯については(新)ブログ記事「折れなかった垂直尾翼(1)」を読んで頂きたいと思います。

■写真に写ったもの

画像1の写真を見てまず目につくのは、2番の橙〇で囲んだ黒い物体です。ぼやけていて色も形もはっきりしていませんが、おそらく撮影者もこれが気になって撮影したのだと思われます。

これについては、私もかつては「戦闘機なのでは?」と仮説を提示しましたが、その後、専門家による画像分析でオレンジ色の発光が確認できたと週刊誌で報じられました。

それに続き、これが航空機なのかミサイルなのか、はたまたUFOなのではないかと、とかく議論の的になりますが、今回は歴史ブログの記事なのでこの物体には注目しません。

私が今回注目するのは1番の赤〇で囲んだ部分なのです。ここに何があるのか、読者の皆様はお分かりになるでしょうか?斯く言う私もその存在が気になりだしたのは最近のことなのです。

画像2:伊古奈比咩(いこなひめ)神社本殿

下田市白浜海岸の中間部に、相模湾に突き出した小丘陵があるのですが、この伊古奈姫神社は丘陵の麓に本殿、そして境内の階段を昇った頂上部には樹木に囲まれた奥宮が鎮座します。

画像3:伊古奈比咩神社奥宮

さて、これだけだと、写真のフレームに収まったただの神社という話で終わってしまうのですが、肝心なのはその「伊古奈姫」というお姫様の正体なのです。

■三嶋神の后(きさき)

伊豆半島に三嶋(三島)神社が多いことは、過去記事「名前を消された三嶋」でお伝えしましたが、この神社、名前こそ「伊古奈姫」と女性の名前を冠していますが、実は同じく三嶋神を祀る神社の一つなのです。

画像4:祭神の案内板

では、伊古奈姫とは誰なのか、そして三嶋神(三嶋湟咋:みしまみぞくひ)との関係は?実はそれについて昭和初期に書かれた研究書が同社のホームページに掲載されているので、それを読んでみることにしましょう。なお、漢字は基本的に旧字体ですが、フォントの存在していない異体字については現代漢字に置き換えています。

(イ)伊古奈比咩命に就いて

 本社の主神が伊古奈比咩命にましますことは、既に述べた如く祭神の御名をそのまま社名とする延喜式の記載からでも容易に首肯することが出來るが、然らばその神名並に神格等に就いては如何であらうか。

【古典其他に見える神名】 現神名の顯はれた記事は、日本後紀 (釋日本紀十五所引)淳和天皇天長九年五月二十二日 (癸丑)の條に

 伊豆國言上、三嶋神、伊古奈比咩神二神預名神

とあるを初見とする、爾後文德實錄嘉祥三年十月八日 (壬子)の條を始め、同十一月一日(甲戌)、仁壽二年十二月十五日(丙子)、齊衡元年六月廿六日 (己卯)の各條に見え、その都度神位の加叙が行はれてゐる。次いで延喜の制伊豆國賀茂郡四十六座中の一に記載せられ、降って江戸時代の初期慶長十二年大久保長安奉納の鰐口にも「白濱伊古奈比咩命大明神」とき刻記せられてゐる。

【神格と神系】 上述の如く正史古典に嚴然たる御名を遺させ給ふ大神にましますのであるが、その神格と神系については、古典に記す所尠く、僅かに左の數點を拜するに過ぎない。先づ神格については前記日本後紀逸文中天長九年の條に

  令卜筮亢旱於内裏、伊豆國神爲祟

次で伊豆國より言上して三嶋神・伊古奈比咩神の二神を名神に預るとあるから、此處に言ふ伊豆神は卽ちこの二神にましますことが知り得られ、且つ亢旱を祈って驗あることが推察されるが、更に同文に次で次の一條が記載される。(以下略)

引用元: 伊古奈比咩命神社公式ホームページより

この文献を読み進めると、後段に伊古奈姫 が

 三嶋神の後后

を指すとの記述が見られます。

後后とは二番目の后という意味ですから、当然正妻に該当する本后も存在し、同文献には本后(阿波姫:あわひめ)とその娘(物忌名姫:ものいみなひめ)の名前も記されています。但し、官位を先に授かったのが後后の伊古奈姫だったため、二人は怒って祟ったとの伝承が残されています。

本后と後后、ここに、以前から話題にしている

 双子の皇后 あるいは 二人の皇后

という、少女神とはまた別の、女系史に関する重要テーマが含まれていることに気付かされます。

画像5:このアニメも同テーマを扱ったものか?
©田中靖規/集英社・サマータイムレンダ製作委員会

三嶋系の神社は、大抵は男神「三嶋神」を表に出しますが、どうしてこの神社では后の名を用いるのでしょう?この文献を読むと、祭神五柱の内、主祭神は伊古奈姫と三嶋神ですが、三嶋神については説が定まらず、筆頭の主祭神は「伊古奈姫」であると断じているのです。

■三嶋湟咋の后と豊玉姫

ここで前回の記事「書き換えられた上代の系譜」の画像1を見てみます。これら同一家系の変化と思われる系図の中では、三嶋湟咋(=賀茂建角身)の后の名が不明でした。

画像6:三嶋湟咋の后の名が不明

ここで、この研究書の結論を適用すれば

 ① = ①’ = ①” = 伊古奈姫

と置き換えることが可能です。

ところが、男系継承で記載されている日本書紀と比較すると、ちょっと訳の分からない感じになります。

画像7:日本書紀との比較

これをどう解釈したらよいのか?私は日本書紀の記述は

 後に男系化された古代王朝の系譜

と考えられるので、ここは女系解釈に沿って

 伊古奈姫 = 豊玉姫
 三嶋湟咋 = 彦火火出見

と置き換えが可能であろうと見ています。これを私は「一体分身」の原則と捉えており、これまで他の例でも見てきたように、個人の功績や職名、諱(いみな)などそれぞれに別の名前を用い、まるで複数人が存在していたかのように史実を攪乱し捏造する、史書編集者の常套手段ではないかと見ているのです。

しかも、この混乱した話を神話(ファンタジー)としてしまえば、後世の読者は話の辻褄について事実関係を訴求する意欲を大いに削がれるばかりか、現代の神道のようにあたかも神話の神々が実在するかのように勘違いするかもしれません。

このように暗号化された史書を読み解くには、史書編集者がどのような改変手法・暗号化手法を適用したのか、それを見抜かなければなりません。そして、何故そんなことをしてまで史実を隠そうとしたのか(あるいは逆説的に事実を残そうとしたのか)、その意図を探るのもまた重要なテーマとなるのです。

さて、

 天皇の祖先が三嶋湟咋?

これがいったい何を意味するのか、今後、より深く見て行きたいと思います。


* * *

今回の記事冒頭では、123便事件を取り上げましたが、そもそも歴史研究を始めたのが、同事件発生の大きな理由に古代から現代まで横たわる何か大きな社会的構造の歪みが関わっているからだろうと見立てたからなのです。

その歴史的追及が直接この事件の現場と関わってきたことに、何か偶然でないものを感じてなりません。これまでの調査から、123便事件の背景には、昭和天皇と美智子妃殿下(当時)の存在が非常に大きいだろうとしてきましたが、ここにきて、およそ2000年の時を超え、古代と現代の天皇、そして后の関係が繋がってきたように感じるのです。


管理人 日月土

甲と山の八咫烏

今月初旬、琵琶湖周辺の調査へ向かい、その足で短い時間ですが京都市内にも立ち寄りました。その時、京都駅にも近い六角堂に立ち寄った時の状況については、(新)ブログ記事「京の知られざる観光地」で触れています。

六角堂を訪れたその前、私が向かった先が京都の北区にある「久我神社」(くがじんじゃ)なのです。北区の神社と言えば、それこそ賀茂川のほとりに佇む上賀茂神社が有名で、訪れる方も多いと思うのですが、今回。敢えてこの神社を目指して向かったのには訳があります。

画像1:京都北区の久我神社

それは、京都の南北を結ぶ幾筋もの通りの中で、特に「大宮通」と名付けられた、おそらく神社に関連付けられただろう古い通りの名前が気になり、その北側の終端がどこで終わっているのかを調べたところ、確かに上賀茂神社のすぐ西側で終わってはいるものの、同社と大宮通の間は賀茂川が遮っており、大宮通の終端部から上賀茂神社へ向かうには、一旦賀茂川沿いを南下し、御薗橋(みそのはし)を渡らなければなりません。

画像2:大宮通北端周辺と久我神社

要するに、現在の区割りからは上賀茂神社へと続く通りとは考えにくく、それではどうして「大宮」と名付けられたのか疑問だったのです。これについてWikipediaの「大宮通」では、その名前の由来を次の様に記述しています。

「大宮」は皇居を示す語で、「大内裏の東側に接していたため」との見方が一般的である。ちなみに、大内裏の西側に接していた通りを「西大宮大路」といった。

しかし、大徳寺通(旧大宮通)を経た北区紫竹下竹殿町にある、式内社「久我神社」周辺の地は、かつて大宮郷と呼ばれていた。ここは賀茂氏が京都盆地に最初に居を定めた場所とされ、上賀茂神社の旧地との説も残っている(上賀茂神社から賀茂川右岸側への渡しは、かつて「大宮の渡し」と呼ばれた)。

つまり、「大宮」という名称そのものは平安京の建設前から存在しており、大宮通、ひいては平安京の「大宮大路」命名の由来となったとしても不都合はない。むしろ、平安京建設時の基準線となった可能性さえも否定できない。

引用1:大宮通 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E9%80%9A

ここから、本来の歴史的重要地点は大宮通の北端周辺にあるのだろうと、かつての「大宮(皇居)」、あるいは「上賀茂神社の旧地」の姿を偲ぶには、まず神社として現在も形を残している「久我神社」を訪れるべきだろうと考えたのです。

■久我神社と賀茂建角身命

画像1をご覧になればお分かりの様に、久我神社は京の閑静な住宅・商店街の中に静かに佇む、檜皮葺の京都らしい美しい神社です。正直なところ、京都市内では良く見られる光景であり、現在観察できる様式から古い歴史的痕跡を追うのはちょっと難しそうです。

ここは素直にWikipediaさんの記述を拝借してみましょう。注目するのはやはりその主祭神についての部分です。

祭神は次の1柱。

 賀茂建角身命 (かもたけつぬみのみこと)

賀茂県主(賀茂氏)の祖神。上賀茂神社祭神の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたり、神武天皇の東征で先導した八咫烏(やたがらす)と同一視される。

古くより社名を「氏神社」を称することから、祭神は賀茂氏祖先神の賀茂建角身命とされるが、上賀茂神社文書によれば近世には国常立尊等の異説も存在した。

引用2:久我神社 (京都市北区) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%8C%97%E5%8C%BA)

ここで、「賀茂建角身命」という神名が登場しましたが、当然あの有名な上賀茂神社と下賀茂神社、正式名で言う「賀茂別雷神社」(かもわけいかづちじんじゃ)と「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)と当然無縁ではありません。

それでは、上下賀茂社の主祭神についても見てみましょう

 賀茂別雷神社(上賀茂):
  賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
   
 賀茂御祖神社(下賀茂):
  東殿 – 玉依姫命(たまよりひめのみこと)
  西殿 – 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)

以上の主祭神の血縁関係を系図に整理すると次の様になります。

画像3:賀茂家始祖の系譜

上系譜で「丹塗矢?」としたのは、Wikiに掲載されている次の解説に因るもので、すなわち不詳と言う意味となります。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。

引用3:賀茂別雷神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE#%E6%91%82%E6%9C%AB%E7%A4%BE

この賀茂一族の始祖とされる神様たちなのですが、なんと日本書紀や古事記には登場しないのです。しかし、現地に残る神社を眺める限り、現在でも非常に大事にされているのが分かりますし、下賀茂神社の「葵祭」(あおいまつり)が、全国的にも有名な京都のお祭であることは皆様も既にご存知でしょう。

画像4:上賀茂神社(左)と下賀茂神社(右)

奈良時代以前から朝廷による厚い崇敬を受けたとされる賀茂一族始祖のお宮、それがどうして日本の代表的史書と呼ばれる記紀に登場しないのか、思えばこれは非常に不思議な事でもあります。

■甲の烏(カラス)

ここで、上記引用2の記述を再度見てみます。そこには「神武天皇の東征で先導した八咫烏(やたがらす)と同一視される」とあり、その根拠は書かれていないものの、単なる推測の一つと捨て置くには、余りにも重要な一文であると私は捉えます。

日本書紀において、八咫烏は次の各シーンで登場します。

【八咫烏派遣の夢のお告げ】
時に夜夢みらく、天照大神、天皇に訓(をし)へまつりて日はく、「朕今(あれいま)頭八咫鳥(やたのからす)を遣す。以て郷導(くにぐにのみちびき)としたまヘ」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔び降る。天皇の日はく、「此の烏の来ること、自づから祥(よ)き夢に叶えり。

【兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)召喚の使い】
十有一月(しもつき)の癸亥(みづのとゐ)の朔己已(ついたちつちのとみのひ)に、皇師(みいくさ)大きに挙(こぞ)りて、磯城彦(しきひこ)を攻めむとす。先づ使者を遣して、兄磯城を徴(め)さしむ。兄磯城命(おほみこと)を承けず。更に、頭八咫烏を遣して召す。時に、烏其の営に到りて鳴きて日はく、「天神(あまつかみ)の子、汝(いまし)を召す。率(いざ)わ、率わ」といふ。

【行賞に預かる八咫烏】
又、頭八咫烏、亦賞の例に入る。

引用4:岩波文庫 日本書紀巻第三 神武記より

また、八咫烏は一般的に同巻に登場する次の金鵄(きんし)と同一視するのが一般的なようです。

【長髄彦(ながすねひこ)との戦いに金鵄現る】
十有二月(しはす)の癸已(みづのとみ)の朔丙申(ついたちひのえさるのひ)に、皇師(みいくさ)遂に長髄彦を撃つ。連(しきり)に戦ひて取勝(か)つこと能はず。時に忽然(たちまち)にして天陰(ひし)けて雨氷ふる。乃ち色の霊(あや)しき(とび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。其の鵄光り嘩煜(てりかがや)きて、状流電(かたちいなびかり)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひとども)、皆迷ひ眩(まぎ)えて、復力(またきは)め戦はず。

引用5:岩波文庫 日本書紀巻第三 神武記より

引用4にあるように、八咫烏は神武天皇から論功行賞を授かっていることから、実際には鳥(カラス)などという動物的象徴ではなく、東征において功績が認められた、実在した人物であると見るのが正しいのでしょう。

現在の京都において、賀茂一族の始祖が非常に大事にされている事実に反して、その人物の名が記紀に全く記載されていないというのも考えにくいことであり、やはりここは

 賀茂建角身命=八咫烏

と捉えて良いのではないかと私は考えます。問題なのは何故このような名前の書き換えを行ったのかというその点なのです。

加えて、記紀などの史書類を暗号の書と捉えている立場としては、「賀茂」(かも)という言葉の用法にも大きな意味があると予想するのです。

京都市内には、「下鴨梅ノ木町」や「加茂町青柳」、「上賀茂葵田町」といった町名がある様に、「カモ」の地名表示に使用される漢字が不統一だという事実があります。これは漢字表記に意味が無いとも言えると同時に、どの字を当てても構わないことを意味していると考えられます。

ここで、画像1の写真に見られる、提灯にデザインされている神紋の「二葉葵」の意味が重要になってきます。水草の「葵」(あおい)の葉が示すのは、上賀茂神社ホームページの解説では「あふひ=逢ふ霊」、すなわち神との出会いを意味しているのだと説明されています。

画像5:久我神社の提灯に描かれた神紋「二葉葵」

これはこれで非常に美しい説明なのですが、私はもっと直接的に、この紋が意図するのは水鳥が啄ばむ草、あるいは葵が群生する水辺にかならず居る鳥という意味であり、すなわち鳥類の「鴨」を指していると見るのです。

もうお気付きの様に、「鴨」の字は「甲」(かぶと)と「烏」(からす)の二字に分解されることから、

 鳥辺の一字は八咫烏の血筋を表す符丁

と考えられ、すると別の漢字を当てた「賀茂」や「加茂」についても、当て字自由の原則から同じく八咫烏の系統であるとみなせるのです。

この考え方を以ってすれば、日本書紀に記述された「鵄」(とび)についても同字に「烏」(からす)の文字が見られることから、

 金鵄=八咫烏

と見なしても解釈上の問題はなくなることになります。

さて、ここまでクドクドと細かい考察を続けてきましたが、これにどのような意図があったのかもうお気付きでしょうか?それはまさに前回記事「名前を消された三嶋」で尻切れトンボに終わってしまった「三嶋」のルーツを探求する為のものであったのです。

 三嶋

この字を見ればもうお分かりですよね?



烏なぜ鳴くの烏は山に可愛い目をした子があるからよ
管理人 日月土

大空のXXと少女神の暗号

年が明けたばかりの今月6日、某所(後で説明)の現地調査に向かったのですが、移動中に空を見上げて驚いたのが、そこに描かれた二つの「X」の文字だったのです。その状況は(真)ブログ記事「新たな祭の始まり」で触れています。

それが自然にできた雲によるものなのか、あるいは飛行機雲なのか、その発生源については未だに不明ですが、空に文字様の雲を見かけるのは必ずしも珍しいことではありません。それでも今回驚いたのは、そこに描かれた文字が「XX(ダブルエックス)」であるということ、また「XX」を見たのがこれで2回目だということなのです。

最初の目撃体験については、昨年4月の(真)ブログ記事「大空のダブルエックス」で触れていますが、何より不気味に思えたのが、「XX」を目撃した2回の調査活動の目的が

 少女神のルーツを探る

という、同じテーマであったことなのです。

画像1:2度出現したXX状の雲

■ダリフラのXXの意味を再考する

4年近く前、(神)ブログを始めた頃に2018年のアニメ作品「ダーリン・イン・ザ・フランキス」(以下ダリフラ)を取り上げ、そこに隠された日本古代史について分析を行いました。

取り敢えず、その時点で気付いた要素については一通り記事にしたつもりだったのですが、そう言えば、このアニメのタイトル画には「XX」が2つも描かれていたのを思い出したのです。

画像2:ダリフラのタイトル画

ここで、過去の記事を読み返してみたのですが、当時はまだ上古代における皇后兼巫女の女系継承問題、いわゆる「少女神」についてはその概念すらなかったので、分析の方向性は

 双子の皇后

すなわち、政治的なポジションとしての皇后と、宮中祭祀など巫女的役割を担った二人の皇后がいたのではないか、その点にのみフォーカスし、血の継承問題については特に分析の対象とはしていませんでした。

そこで、偶然?にも二度目撃した「XX」に鑑み、ここではこれまでのダリフラ分析に新たに女系継承の視点を取り入れてみようと思い立った訳なのです。

これまでのダリフラ関連記事:

 1)2019年3月30日 “ダリフラ”、タイトルに隠された暗号 
 2)2019年4月2日 太宰府で繋がる新元号とダリフラ 
 3)2020年2月27日 ダリフラのプリンセスプリンセス 

さて、タイトル画以外に「XX」の意味について触れたシーンが作中に一箇所あるので、まずはそこを押さえておきましょう。

画像3:生体兵器「叫竜」(きょりゅう)の肉体はXX(女性遺伝子)で構成されている
(第20話より)

アニメの設定における位置付けはともかく、画像3をのシーンを見る限り、少なくとも「XX」がX染色体、すなわち「女性遺伝子」を指していることは明らかです。問題なのは、画像2のタイトル画で象徴されるように、何故「女性」と「遺伝」をここまで強調するのかその点なのです。

単純に考えれば、これは女性の特性が遺伝的に続くこと、すなわち女系の血の継承を表現しているのではないかと取れるのですが、いかがでしょうか?

これまでの分析により、アニメの主人公である少女「02」(ゼロツー)は、その数字が「鬼」を表すことから、鬼道(呪術)の使い手で知られる卑弥呼、そしてその実体である神武天皇の皇后、媛蹈輔五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)をモデルにしているだろうと予想しています。

また、「媛」ヒメの字がその名に2箇所使われていることから、恐らくこれが双子の皇后の存在を表すであろうとも結論付けています。アニメでは「ゼロツー」が「叫竜の姫」の遺伝子クローンという設定になっていますので、これはまさにヒメタタライスズヒメが双子であることを遠回しに表現しているのではないかと捉えたのです。

これらを少女神の視点から更に表現し直すと

 双子の皇后ヒメタタライスズヒメは、特定女系の血を引き継いでいる

となるのです。

実は、この予想を補足する作品中のメッセージとして、次の登場人物のネーミングが大きな意味を持つことに後から気付きました。

画像4:二人の主人公の世話役「ハチ」(008?)(右)と「ナナ」(007/077?)(左)

二人の役どころは、主人公達を含む「子供」と呼ばれる少年・少女戦闘員の世話役、物語の最後では彼らの親代わりというポジションに移るのですが、まずここで親子という世代継承のニュアンスが表現されているのが分かります。

しかし、数字をそのまま読み替えただけだろうこの二人の名前は、より重大な意味を含んでいることが以下の分析から見出せるのです。なお、この二人に限っては、他のキャラには付けられているコードナンバーが何故だか設定上でも明記されていないので、「ハチ」については「8」、「ナナ」については「77」の数字を割り当てることにします。

画像5:二人の名は「皇后」を表す。

3桁の数字「123」が「天皇」の意味を持つことは(真)ブログ記事「新嘗祭イヴの呪い」をご確認頂きたいのですが、実はこの場合「877」という数字が転じて「皇后」を意味することはこれまで説明したことはありませんでした。

どうしてそう言えるのかは、画像5を見ればお分かりの様に、この二つの数字が加算された時に初めて新しく4桁目が生じる、すなわち、天皇と皇后の組み合わせが新しい次の世代を生み出すと解釈できることに拠るのです。

ここまで来ると、「ハチ」と「ナナ」のネーミングは適当に付けられたものとは考えにくく、明らかにこれは、「皇后」に関連するメッセージを強く含んでいると考えられるのです。

古代史ならず日本の歴史の主役は「天皇」であると私たちは考えがちですが、どうやらダリフラが意図する歴史的視点は、皇后の輩出家系についても大いに注目しているようなのです。

■ヒメタタライスズヒメと三嶋溝橛

さてここで、ダリフラにおいて角の有る美少女キャラのモデルとなったであろうヒメタタライスズヒメが史書の中でどのように記述されているかを確認してみます。

此の神の子は、即ち甘茂君等(かものきみたち)・大三輪君等、又姫蹈韛五十鈴姫命なり。又日はく、事代主神、八尋熊鰐(やひろわに)に化為(な)りて、三嶋の溝樴姫(みぞくひひめ)、或は云はく、玉櫛姫(たまくしひめ)といふに通ひたまふ。而して児姫 蹈韛 五十鈴姫命を生みたまふ。是を神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと[=神武天皇])の后(きさき)とす

日本書紀神代上第八段一書から

これの他に、次の箇所でも登場します。

庚申年(かのえさるのとし)の秋八月(あきはづき)の癸丑(みづのとうし)の朔(ついたち)戊辰(つちのえたつのひ)に、天皇、正妃(むかひめ)を立てむとす。改めて広く華輩(よきやから)を求めたまふ。時に、人有りて奏して日さく、「事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまみぞくひみみのかみ)の女(むすめ)玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める児を、号(なづ)けて媛蹈輔五十鈴媛命と日す。是、国色(かほ)秀れたる者なり」とまうす。天皇悦びたまふ。

日本書紀神武天皇記本文から

以上から、書紀では神武天皇の正皇后であるヒメタタライスズヒメは事代主神と玉櫛姫の間に生まれた子と記述されているのですが、秀真伝ではその辺の関係性が少し異なります。

画像6:秀真伝によるヒメタタライスズヒメの系譜

上図の様に、秀真伝によれば玉櫛姫を娶った事代主と言うのは、同じ事代主でも孫の世代に当たる「ヤヱコトシロヌシ」を指すようなのです。

事代主は皇統の代で言えば瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と同世代になりますから、その娘が瓊瓊杵尊のひ孫に当たる神武天皇の后になるというのは少し不自然です。ですから、同じく事代主のひ孫世代がヒメタタライスズヒメとなる秀真伝の記述の方が、より真実に近いと考えられます。

さて、今回の注目点は「少女神」ですから、そうなるとどうしても気になるのが、画像6でも示した、皇后を輩出した家系

 三嶋溝橛(みしまみぞくひ)

とは何者なのか、その点なのです。残念ながら、秀真伝でも三嶋溝橛の妻の名、およびそれより遡った系図は出ていません。

少女神と言う概念を初めて取り上げた記事「少女神の系譜と日本の王」で、私は「みシまる 湟耳(こうみみ)」氏が書かれた本「少女神 ヤタガラスの娘」を紹介しましたが、その中でネタバレ防止の為、次の様に一部を伏せて書いている箇所があります。

古代皇統の権威は特定家系である「☆☆☆」家の少女の元へ入婿することによって引き継がれてきた

もうお分かりのように、この伏字に入る文字は

 ミシマ

なのです。また、著者が三嶋溝橛にたいへん注目していることは、ペンネームの「みシまる」に如実に表れているとも言えるでしょう。

これまで、国内少女神の家系として、伊弉冉尊(いざなみのみこと)から始まる、下照姫の家系、月読尊の家系を予想していましたが、今回登場した三嶋溝橛がそのどちらかの系統に繋がる血筋なのか、あるいは全く別の女系一家なのか、新たなる謎が加わることになりました。

ダリフラというアニメは、素人目に見ても相当に脚本を練った作品、あるいは古代史情報をふんだんに詰め込んだ作品と認められるのですが、ここまで出してくる目的とはいったい何なのか?表現者のその意図を含め、今後の分析が求められるのです。

■大空のXXが意味するもの

次の2つの写真は、空にXXが出現した当日の調査対象です。

画像7:香良須(カラス)神社 愛知県豊田市市木町(令和4年4月11日撮影)
画像8:三島神社 千葉県君津市糠田(令和5年1月6日撮影)

香良須神社はみシまる氏の著書に書かれていたことから、半ば興味本位で向かった場所ではあるのですが、現地の客観的な情報からだけでも次の点が窺えます。

 祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)→ ワカヒメ → 下照姫(少女神)
 所在地は市木町(いちきまち) → イチキ → 市杵島姫(少女神)

そして、君津の三島神社については特に語る必要はないでしょう。

大空のXXが少女神調査との関りで出現したものなのか、それとも単なる偶然なのか、それは私にもよくわかりません。ただ、このテーマが日本(にほん)という国の成立ちを知る上で、避けて通れないものであることを、ひしひしと感じるのです。


賀茂川を上りて向かう姫宮は紅差す御身の清き里なり
管理人 日月土

加耶展に見る古代朝鮮と日本

アニメ映画「もののけ姫」の設定に、日本古代史がテーマとして組み込まれているのではないかと指摘してから1年以上が経過しました。

 関連記事:愛鷹山とアシタカ

その分析の中でもやもやと引っ掛かっていたのが、カヤという少女の存在です。呪いを掛けられたアシタカは、その呪いを解く為に村を離れることになるのですが、懇意にしていた村の少女「カヤ」と決別することになります。

画像1:アシタカとカヤ
(© 1997 Studio Ghibli・ND)

このカヤとアシタカのモデルとなった日本神話上の登場人物は

 アシタカ: 瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)
 カヤ:   栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)

とまでは分析できたのですが、瓊瓊杵尊が富士山の静岡県側にある愛鷹山(アシタカヤマ)からその存在が比較的簡単に特定できたのに対し、どうして栲幡千千姫のことを「カヤ」と呼ぶのかはこれまで不明のままでした。

というのも、「カヤ」という呼び名からは古代朝鮮に存在したとされる伽耶連合王国との関連性が想起されますし、画像1を見ればお分かりのように、カヤの被っている帽子の形状は、朝鮮式の笠帽子「갓(カッ)」を表現しているようにしか見えません。どうしてそのような思わせ振りな役名にしたのか、今一つその理由が釈然としなかった点が挙げられます。

神話ではなく、実在した王族達のリアルな記録として日本古代史を記述する「秀真伝(ホツマツタエ)」によると、栲幡千千姫は第7代高皇産霊(タカミムスビ)に就いた高木(タカギ)の娘で、その高木は現在の東北(宮城県多賀城市付近)に宮を構えていたとありますので、アシタカの元居た村が東国にあるという設定とは上手く符号します。

しかし、高木の娘である栲幡千千姫にどうして東北とは全く明後日の方角にある古代朝鮮王国の名が付けられたのか、どう考えてもその必然性が思い付かず謎のままだったのです。

そして、この栲幡千千姫はその名が示す通り「尋の神隠し」のヒロイン「千尋」として再度モデル化されるのですが、ここからも、栲幡千千姫が日本古代史において重要な役割を担っていることが窺われるのです。つまりは、伽耶とは古代日本を語る上で無視できない重要トピックであるとも読み取れるのです。

 関連記事:千と千尋の隠された神

■加耶展が絶賛開催中

そもそも、私自身が伽耶なる古代朝鮮王国連合について大した知識もなかったので、これ以上の探求はストップしていたのですが、そんな折、たいへんタイムリーな企画展示が、この10月4日から千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館で開催されるのを聞いて思わず小躍りしました。

画像2:加耶展のポスター
(展示では「加耶」の漢字表記に統一されています)

 関連サイト:国立歴史民俗博物館公式ページ

そこで、博物館へ早速出かけてきたのですが、残念ながら展示物について論評できる程の力量が私にはありませんので、ここではその時の様子を簡単にお知らせするのみに留めたいと思います。

まずは、展示を理解するために必要なバックグラウンドの知識からご案内しましょう。

画像3:伽耶諸国の位置関係
(展示図録から引用)
画像4:東アジア略年表
(「時空旅人」11月号から引用)

以下、展示室内で撮影した写真を幾つかご紹介します(写真撮影可です)。暗い室内の撮影の為、ピンボケ写真ばかりとなってしまいましたがご容赦ください。

画像5:伽耶と言えば「鉄」
発掘された鉄器生産の道具類
画像6:美しい伽耶の土器類
左上から時計回りに金官・阿羅・小・大の各伽耶
画像7:伽耶で発掘された北九州産の銅矛
画像8:王冠及び装飾品
画像9:日本国内の発掘物にも伽耶交易の影響が見られる
画像10:「新撰姓氏録」(しんせんしょうじろく)に書かれた朝鮮由来の氏
第10代崇神天皇の和風諡号が記されており、その時期に半島から日本に渡ってきた氏族の記録が書かれているようだ

他にも展示品はありますが、そちらについてはぜひ博物館に足を運び、実際にご覧になって頂ければと思います。

展示自体は比較的小規模で、説明文の全てに目を通しても1時間少々で見て回れるでしょう。しかしながら、日本国内ではなかなかお目にかかれない貴重な展示ばかリで、たいへん見応えがあると言えます。

日本古代史において何かと登場する伽耶ですが、文献や写真だけでは当時の様子をイメージするのは極めて困難です。しかし、このように実物を見ながらだと頭に入って来る印象や情報量が全く異なってきます。

古代日本の成立史を考察する上で朝鮮半島史は欠かせないものであり、それ抜きでいくら「神国日本!」などと叫んだところで虚しいだけです。もしかしたら「もののけ姫」はその点についても示唆しているのかもしれません。

反日だの嫌韓だのと狭い了見でいがみ合っていては、私たち日本人だけでなくお隣韓国の人々にとっても正しく民族のルーツを知るという貴重な機会を失うだけです。近現代の偏狭な歴史観に囚われた現在の日韓関係を払拭する上でも、日本と韓国の博物館が協力して実現させた今回の展示はたいへん有意義なものであると評価できます。

以上、読者の皆様には同展示の見学を強くお勧めします。

むかし日本は三韓と同種なりと云事有し。彼書を桓武の御代に焼すてられしなり

(北畠親房 「神皇正統記」より)


管理人 日月土

佐用姫伝説の地を訪ねる

つい先日、佐賀県は唐津市へと知人と共に史跡を回ってきました。今回の記事はその記憶がまだ鮮明な内にと、調査の記録を綴ったものです。

佐賀県と聞くと、特に目立つ産物もなく、九州で最も地味な県と認識されている方も多いと思いますが、歴史研究においては謎多き魅惑の土地でもあるのです。

その中でも佐賀県の北部、玄界灘に接している唐津は、史跡の宝庫である福岡県糸島市の西隣で、博多からも電車または車で1時間少々しか離れていません。ですから、ここから大都市である福岡市内に通勤されている方も居られるようです。

画像1:佐賀県唐津市の地理関係 (Googleマップより)

上の地図をご覧になれば分かるように、福岡同様、唐津は対馬や壹岐などの離島、そして朝鮮半島にも近く、どう考えてもここが歴史の舞台にならない訳がないのです。もっとも、唐津在住の知人は「こんなところ呼子(よぶこ)のイカと名護屋城くらいしかありませんよ」と謙遜されますが、それはまた、唐津の歴史的価値が未だに埋もれたままになっていることの裏返しであると私は思っています。

そんな知人が、「何か歴史的に重要なものはないか?」という私の問いに対して示してくださったのが、地元で良く聞かされていたという「鏡山(かがみやま)と佐用姫(さよひめ)伝説」だったのです。

佐用姫伝説についてはWikiペディアの「松浦佐用姫」に詳しいのですが、何でも日本三大伝説の一つとも言われる、昔から全国的に有名なお話なのだそうです。とは言っても、私の場合はその知人から話を聞くまでは何も知りませんでしたし、読者の皆様でもそういう方は多いでしょう。

伝承については、複数のバリエーションがあるようなのですが、まずはスタンダードな伝承スタイルとして、佐用姫伝説ゆかりの地でもある、唐津市呼子町の田島神社、その摂社である「佐與姫神社」の案内板から次の解説文を引用します。

               佐與姫神社

松浦佐與姫を祭るこの神社は、宣化天皇二年十月、大伴狹手彦(おおとものさでひこ)は勅命によリ、任那を援護することになり、京の都を発し、松浦国篠原の里に滞在した。

篠原村長者の娘佐與姫は心優しく狹手彦と相思の仲となった。いよいよ出航の時、別れを惜しみ後を慕い、領布振山 (ひれふりやま=鏡山のこと)に登り遙に船影を望んだ。更に松浦川を渡り沖合遠く走る帆影は小さく雲間に没して見えなくなった。

姫の悲嘆はますます募り、田島神社の神前に詣でて夫の安泰を祈念しながらも泣き続け息絶えて神石となられた。世に言う望夫石である。これをお祀りしたのが当社である。

豊臣秀吉より文禄二年百石の御朱印以来、徳川将軍家に引継がれた。その後佐與姫の想いがかない、狹手彦は無事帰国した。以後唐津城主の姫君などがお忍びで再三参拝され、良縁の御守を持ち帰られた “以来縁結びの守神として信仰厚く、男女の参拝は習俗となって現在も続いている。

以上が佐用姫伝説として知られている一般的なストーリーなのですが、この美しい恋愛譚が人の心を打つのか、昔から縁結びの神様として崇敬を集めていたようです。

しかしこのお話、元々の土地伝承(風土記)とはかなりの相違点があるようなのです。

画像2:加部島の佐與姫神社(9/28撮影)

■付け加えられた石化伝承

佐用姫伝説の相違点、これについては現地の郷土史研究家の岸川龍氏が分り易く論文まとめられているので、ここではそのURLをご紹介すると共に、その要約のみを簡単にお伝えしたいと思います。

 関連記事:鏡山と万葉 松浦佐用姫伝説考 

岸川氏が指摘する風土記と一般伝承の相違点は次の通りです

 相違点1:風土記の佐用姫は石にならない(石化)
 相違点2:風土記の佐用姫は蛇に連れ去られ絶命する(蛇婚)
 相違点3:風土記の佐用姫は「鏡」を川に落とす(鏡)

どうやら、佐用姫伝説が紹介された鎌倉時代の説話集に、佐用姫伝説と中国由来の「亡夫石」伝承が併記されていたため、話が融合して記憶されてしまっただけでなく、土地伝承に含まれる気味の悪い箇所が切り捨てられたのではないかと、岸川氏は推察しているのです。

また、同論文は佐用姫伝説を題材にした万葉集の7首を例に上げ、そこには「蛇婚」もなければ「鏡」もない、そして「石化」の表現すら見られず、単に男女別離の悲哀を歌っただけであることも指摘しています。

万葉集を含む全ての表現に共通しているのは、山の上から夫に向かって「領巾を振る」という佐用姫の律儀で切ない行動だけなのですが、これらを、時間の経過による伝承の変化と結論付けるには、少し気になる点も多いのです。

画像3:佐用姫が領巾を振ったとされる鏡山から唐津湾を望む(9/27撮影)

■佐用姫は巫女であった

先代旧事本紀には、十種神宝(とくさのかんだから)というと饒速日命(にぎはやひのみこと)が天降りする際に、天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする、皇統の証となる神宝について書かれた箇所があります。

この神宝の中には蛇比礼(おろちのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物之比礼(くさぐさのもののひれ)という3種の領巾(=比礼=ひれ)が含まれていますが、ここからも分かるように、領巾とは一種の神具であり、これを単純に「スカーフのようなもの」と解釈するとこの物語の解釈を誤ることになると私は思うのです。

また、領巾を振るとは明らかに何らかの呪(まじな)い事を意味しているのですが、文脈から素直に考えると、佐用姫の領巾振りは、夫の無事の帰還を願う祈りと捉えることができます。

しかし、ここで問題なのが、肥前風土記にある「鏡」の一節で、鏡が古代日本において特別な神宝及び神具であることを考慮すれば、これらの道具を携える佐用姫とは、ただの美しい豪族の姫ではないことに直ぐに気付かされるのです。

これらから、佐用姫が古代巫女(シャーマン)であった可能性は極めて高いと私は考えます。

また、一般伝承に「鏡」の伝承が抜け落ちてしまっているのに、どうして現在に残る佐用姫所縁の山が「領巾振山」と「鏡山」の二つ名であるのか、それは、巫女佐用姫の記憶が今でも強く残っているからと考えられないでしょうか?

画像4:鏡山展望台の松浦佐用姫像(9/27撮影)

すると、佐用姫と大伴狹手彦の関係、特に佐用姫の出身が唐津の山間部である厳木(きゅうらぎ)であることを考慮すると、海神族系の大伴氏との関係は奇妙であるばかりでなく、宣化天皇の一代前である継体天皇が大伴系の血筋であることも何か関連するように思えてくるのです。

大伴狹手彦の渡航から130年後には白村江の戦いが起きて日本は大敗北を喫するのですが、この新羅征伐が後の白村江に関わってくるのはもはや明白でしょう。この様に考え始めると、この伝承を巡る様々な当時の事情がもう一段深く見えてくるのですが、それらの考察については次回に持ち越したいと思います。


鏡山沼辺の小屋に湧き出づる人影隠れ蛇と現る
管理人 日月土

玉名の疋野神社と長者伝説

この6月に実施した九州は熊本県、菊池川周辺(菊池市・山鹿市)の史跡調査について、これまで5回連続でお伝えしてきました。

気になる点を細かく掘り下げ続けているといつまでも終りそうにないので、今回はレポートの締めくくりとして、菊池川が海に注ぐ街、熊本県の玉名(たまな)市を取り上げてみたいと思います。

玉名レポートと宣言する以上、本来なら2,3日かけて調査した結果を報告するべきなのでしょうが、残念ながら、今回の調査日程では時間が十分に取れず、山鹿から帰りの便が待つ熊本空港へと移動するまでの数時間しか立ち寄ることができませんでした。

それでも、なかなか興味深いものが見れたのではないかと思います。

■古代菊池川流域文化圏

山鹿市から玉名市に入ってすぐに、私はまず玉名市街にある疋野神社に向かったのです。

画像1:疋野神社

ここで、、菊池川流域のこれまでに訪ねた史跡について、次の様に地図上にまとめました。なお、この地図には2020年に一度調査に訪れた、山鹿市のオブサン・チブサン古墳、和水(なごみ)町のトンカラリン・江田船山古墳も含まれています。

 関連記事:チブサン古墳とトンカラリンの小人

画像2:これまで訪れた菊池川沿いの史跡(元画像:Google)

この地図を見ればお分かりの様に、縄文から飛鳥時代初期まで、古代期とは言えそれぞれ少しずつ時代が異なるものの、菊池川流域にタイプの異なる様々な史跡が見られることに驚かされます。

ここから、かつての菊池川流域には、日本の古代期を知る上での重要なヒントが隠されているのでないかと考えられ、今回この調査を実行したのも、まさにそれを確かめる為でもあったのです。

この中で玉名は菊池川の最下流域であり、人が海から上陸し、菊池川沿いに遡上したと仮定するならば、ここが菊池川流域文化のスタート地点となり、同時に、菊池川流域と海外を繋ぐ重要拠点としてその後も発展し続けたのではないかと想像されるのです。

■疋野神社と日置氏

さて、話を疋野神社に戻しましょう。この神社の由緒については同社のホームページに非常に詳しく書かれているのでまずそこからの引用をご紹介しましょう。

由緒について:

疋野神社の創立は景行天皇築紫御巡幸の時より古いと伝えられ、2000年の歴史を持つ肥後の国の古名社です

祭神について:

・疋野神社は他の神社よりのご勧請の神様をお祀りした神社ではありません。大昔よりこの玉名の地に御鎮座の神社であり、この地方を古来より御守護なされてきた神様をお祀りする神社です。
・御祭神、「波比岐神」は日本最古の著『古事記』記載の神様であり、日本建国の場づくりをなされた神代の時代の尊い神様です。
・相殿には父神様であります「大年神」がお祀りされています。大年神は、天照大御神と御姉弟であります素盞鳴尊の御子神様です。

波比岐神(はひきのかみ)とは、古事記の中で大年神が天知迦流美豆比売(あまちかるみづひめ)を娶って生んだ神であると書かれています。しかし、日本書紀、秀真伝にその名は見当たりません。このように史書における出現回数が少ない神をどう解釈すれば良いのか難しいところですが、今でもこの神の名を掲げている神社が現存していることは、この謎多き神、ひいては実在した人物モデルが誰であったかを理解する上で大きなヒントとなります。

そして、疋野神社のホームページにはもう一つ重要なことが書かれているのです

当神社は奈良平安時代、玉名地方の豪族日置氏の氏神神社として、はなやかに栄え、また鎮座地の立願寺という地名は、疋野神社の神護寺であった「立願寺」というお寺の名前が起源です。

そう、神社の名となっている疋(ひき)とは日置(へき、ひき、ひおき)のことで、この神社は過去記事「菊池盆地の大遺跡と鉄」で紹介した、日置金凝(へきかなこり)神社の名前にもなっている同じ日置氏を指していると考えられるのです。おそらく波比岐神(はひきのかみ)の子孫という意味なのでしょう。

すると、祭祀族と考えられる日置氏が下流から上流まで菊池川の流域に進出し、この地域で一定の役割を担っていたことは容易に想像されるのです。

古代祭祀場の名残とも思われる菊池川流域の二つの神社に、日本書紀に書かれている祭祀族の日置部(ひおきべ)の名前が冠せられている、この事実は果たして古代のどのような事実を意味しているのでしょうか?

■疋野神社の長者伝説

さて、この疋野神社には面白い伝説が残されています。題して「疋野長者伝説」なのですが、これについて、やはり疋野神社のホームページから引用したいと思います。

千古の昔、都に美しい姫君がおられました。
「肥後国疋野の里に住む炭焼小五郎という若者と夫婦になるように」との夢を度々みられた姫君は、供を従えはるばると小岱山の麓の疋野の里へやってこられました。

小五郎は驚き、貧しさ故に食べる物もないと断りましたが、姫君はお告げだからぜひ妻にと申され、また金貨を渡しお米を買ってきて欲しいと頼まれました。

しかたなく出かけた小五郎は、途中飛んできた白さぎに金貨を投げつけました。傷を負った白さぎは、湯煙立ち上る谷間へ落ちて行きました。が、暫くすると元気になって飛び去って行きました。

お米を買わずに引き返した小五郎に姫君は「あれは大切なお金というもので何でも買うことができましたのに」と残念がられました。

「あのようなものは、この山の中に沢山あります」 との返事に、よく見るとあちこち沢山の金塊が埋もれていました。

こうして、めでたく姫君と夫婦になった小五郎は、疋野長者と呼ばれて大変栄えて幸福に暮らしました。

ほのぼのとした、如何にも昔話と言った風情の伝説なのですが、その基本プロットは以下のように整理されます。

 ・炭焼小五郎という貧しい男がいた
 ・美しい姫が夢のお告げに従い小五郎の元へ嫁ごうとする
 ・小五郎は貧しいゆえに初めはそれを拒む
 ・姫は金(きん)を携えそれで生活できると主張する
 ・小五郎は姫の金を石の様に扱う
 ・金は山の中にたくさんあったがその時まで小五郎はその価値を知らなかった
 ・二人は山の金で豊かに暮らした

さて、この話を取り上げたのは、実は同じような伝説が玉名以外にも見られるからなのです。その伝説の名は「真名野(まなの)長者伝説」です。

真名野長者伝説はWikiペディア「真名野長者伝説」に詳しいのですが、その中から疋野長者伝説と類似する箇所を拾い出してみましょう。ちょっと長いかもしれませんがご容赦ください。

継体天皇の頃、豊後国玉田に、藤治という男の子が産まれたが、3歳で父と、7歳で母と死に別れ、臼杵深田に住む炭焼きの又五郎の元に引き取られ、名前を小五郎と改めた。

その頃、奈良の都、久我大臣の娘で玉津姫という女性がいたが、10歳の時、顔に大きな痣が現れ醜い形相になり、それが原因で嫁入りの年頃を迎えても縁談には恵まれなかった。姫は大和国の三輪明神へと赴き、毎晩願を掛けていた。

9月21日の夜、にわか雨にあった姫は拝殿で休養していた所、急に眠気を覚え、そのまま転寝してしまった。すると、夢枕に三輪明神が現れ、こう告げた。「豊後国深田に炭焼き小五郎という者がいる。その者がお前の伴侶となる者である。金亀ヶ淵で身を清めよ。」

姫は翌年2月に共を連れて西へと下るが、途中難に会い、臼杵へたどり着いた時には姫1人となってしまっていた。人に尋ね探しても小五郎という男は見つからず、日も暮れ途方に暮れていた所、1人の老人に出会った。「小五郎の家なら知っておるが、今日はもう遅い。私の家に泊まり、明日案内することにしよう。」

翌日姫が目を覚ますと、泊まったはずの家はなく、大きな木の下に老人と寝ていたのであった。老人は目を覚ますと姫を粗末なあばら家まで案内し、たちまちどこかへ消えてしまった。

姫が家の中で待っていると、全身炭で真っ黒になった男が帰ってきた。男は姫を見て驚いたが、自分の妻になる為に来たと知り更に驚いた。

男は「私1人で食べるのがやっとの生活で、とても貴女を養うほどの余裕はない」と言うと、姫は都より持ってきた金を懐から出し「これで食べる物を買って来て下さい。」と言って男に渡した。

金を受取った男は不思議そうな顔をしながら出て行った。麓の村までは半日はかかるはずであるのに、半時もしないうちに手ぶらで帰ってきた男は言った。「淵に水鳥がいたので、貴女からもらった石を投げてみたが、逃げられてしまったよ。」

姫は呆れ返って言った。「あれはお金というものです。あれがあれば、様々な物と交換できるのです。」

すると男は笑いながら言った。「なんだ、そんな物なら、私が炭を焼いている窯の周りや、先程の淵に行けば、いくらでも落ちているさ。」

姫は驚き、男に連れて行ってくれるように頼んだ。行ってみると、炭焼き小屋の周囲には至る所から金色に光るものが顔を出しており、2人はそれらを集めて持ち帰った。

どうでしょう、ここまでの下りは殆ど疋野長者伝説と同じです。しかも炭焼小五郎の名は両者で共通しています。敢えて異なる点を挙げれば、真名野長者伝説には続きがあり、二人の娘である般若姫の話、舞台となった豊後(大分県)で有名な摩崖仏誕生の話へと繋がって行くのです。

疋野長者伝説の舞台は熊本県の「玉名」、一方、真名野長者伝説は大分県の「玉田」ですから、このあまりにも似通った地名から、どうやら二つの伝説は同じ出所から派生したと考えられるのです。ではいったい何がこの二つを繋ぐのか?

■長者伝説が繋ぐ百済と古代日本

実はこの二つの類似した長者伝説について、「(元)情報本部自衛官」さんが最近のブログ記事「炭焼き長者と百済王」でたいへん興味深い考察を述べています。

こちらを読んで頂くとお分かりになるように、古代百済にも「薯童(ソドン)と善花公主(ソンファゴンジュ)」という、日本の両長者伝説とそっくりな、

  貧しい男が美しい姫と結ばれ、金(きん)で成功する

というストーリーが存在するというのです。しかも、薯童は百済の王にまで登り詰めるというのですから、この辺は日本の長者伝説においてただ裕福になったとされるストーリーとは若干異なります。

しかし、男に嫁いだ姫が都(みやこ)出身の高貴な家の出であることは共通しており、ここから、これらの長者伝説がどうやらある高貴な女性の出自に関する一つの伝承から派生したことが見て取れるのです。

画像3:疋野長者伝説と類似する伝説を有する地
(他にあるかもしれません)

そして、同ブログ記事で最も興味深い記述とは以下の部分です。

タマナという地名は百済がかつて外地に設置した檐魯담로に由来するという説がある。

現代ハングル読みではDAM LOが鼻音化して ダムノ に似た発音となるが、古代語は概してゆっくり発音する傾向があるため、タムル、タマラといった発音だった可能性は高い。

何故なら古い済州島の呼称を耽羅と言い、日本語読みでもタンラ、現代ハングル読みでもタムナとなる。さらに屯羅、耽牟羅という表記も見られる。

屯という字はタムロと読むし、百済が駐屯した拠点にそうした地名をつけていたという百済研究家を笑い飛ばせる人は世間知らずである。

(元)情報本部自衛官さんのブログから

読者さんは、これがどのような意味かお分かりでしょうか?要するに、

 玉名・玉田は古代百済の拠点だったのではないか?

ということなのです。要するに、同じ百済民族であればこそ、この極めて似通った長者伝説がこれだけ離れた各地に残されたと考えられるのです。

もしもそうだとすれば、私たちが常識として思い描いている

  朝鮮半島の百済・新羅・任那と対馬海峡を隔てて存在する大和国

という古代史の地勢的な構図は全て再考し直さなければならなくなるのです。

一見とてもあり得なそうなことですが、この説を甘受したとき、過去記事「菊池盆地と古代」で紹介した次の写真にまた別の解釈が生まれてくるのです。

画像4:再現された鞠智城

私はここを、白村江の戦いに敗れた百済の難民を受け入れた、いわば難民キャンプのようなものではなかったのかと仮説を立てましたが、ここを元来の百済領地と見れば、無理なくここを「百済の城」または「百済の拠点」であると言い切ることができるのです。

この種の議論をする時に気を付けなければならないのは、そもそも古代期に現代のような国境概念があったのかどうか?いや、現代のような国民国家の認識があったかどうかも疑わしいのです。

もしかしたら、古代期は船が辿り着いた各地に点在する拠点こそが領土であり、いわば複数の「点」の集合で表現される国土認識ではなかったのかということなのです。

それと比較すれば、現代の国土感覚は国境で隔てられた連続する「面」の認識であると言えましょう。

つまり、現在鞠智城跡地とされているこの地こそが、百済の一部だったのではなかったのか、極端かもしれませんがその可能性を排除してはならないと思うのです。

そうすると、玉名から菊池にまで進出した日置氏とはどのような一族であったのか、また、菊池一族のルーツとは何であったのか、はたまたこの地で祀られる第2代天皇「綏靖天皇」やユダヤの痕跡とはどのような繋がりがあるのか、これらの疑問が古代百済との関係で読み解けるかもしれないのです。


大和とは大和成り為す諸国の国かも
管理人 日月土

菊池と菊池一族

これまでに3回ほど熊本県菊池市、及び隣接する山鹿市の現地調査について記事にしています。そこで扱った内容を簡単にまとめると次の様になります。

 ・現在の菊池盆地はかつて茂賀の浦という湖であった
 ・鞠智城(きくちじょう)は百済移民の収容施設だったのではないか
 ・菊池川周辺は古代期から鉄の生産が盛んであった
 ・現地神社にみられるユダヤ文化の痕跡

これで、菊池という土地の様子が少しだけ見えてきたのですが、そうなると無視できないのが、その土地の盟主である菊池一族なのです。

■菊池氏は本当に藤原氏の末裔なのか?

菊池氏の由来をここで細かく記述しても、既にある書籍や他のWebサイトと同じになってしまうので省略したいと思いますが、当の菊池市の観光課がたいへん面白く分かり易い漫画ムービーのWebサイトを制作されていますので、ここを紹介することで説明の代わりとしたいと思います。

画像1:「まんがムービー風雲菊池一族」Webサイト
https://www.city.kikuchi.lg.jp/ichizoku/q/list/105.html

このムービーのプロローグ編では、平安時代に太宰府から藤原則隆(ふじわらののりたか)が同地を訪れ、この土地がたいへん気に入りその姓を「菊池」と名乗って定住したところから始まるとしています。

そして、終章では西暦1300年代の南北朝時代に、南朝に与した菊池氏の当主菊池武光(きくちたけみつ)が、後醍醐天皇の皇子である懐良親王(かねよししんのう)と共に北朝側の太宰府を攻め落とし征西府を樹立、後に北朝方に敗北するまでが描かれています。

基本的に中世史のことに私は不案内なのですが、このムービー解説で疑問に思うのが、藤原則隆がいきなり「菊池」と名乗ることで菊池氏が始まっていることです。それに加え、太宰府での職務を捨てて、いきなり良い土地だと思ったからそこに移り住むかのか?という都合の良い話への疑問も拭えません。

話の冒頭でいきなり龍が現れたのは古伝承におけるご愛敬だとしても、こんな簡単に後の大豪族となる菊池氏が誕生したとは到底信じる訳にはいきません。いくら高官であろうと、よそ者が突然人の土地にやってきて土地の人々がその支配下に入るというのもどこか不自然なのです。

菊池市内にある菊池神社には菊池一族の歴代当主が祀られていますが、境内には菊池神社歴史館なる資料館が置かれ、菊池一族ゆかりの宝物や文化財が展示されています。そこには巻物に記された家系図も展示されていました。

画像2:菊池神社
画像3:菊池神社歴史館内
画像4:藤原則隆の名が書かれた家系図
画像5:血統を遡れば当然こちらの人々に繋がります

これは私の推測なのですが、藤原氏のような名家の血筋を語ったのは、実は、中世の混乱期を生き残るために土着であるの菊池氏が取った高等戦略なのではないか?そうも考えられるのです。

ただし、この家系図が唯一の歴史伝承ですから、これを否定するとなると、またもや菊池氏の出自が分からなくなってしまうのです。

これまでの菊池関連記事で述べたように、菊池には弥生時代ごろから鉄生産を行ってきた形跡があり、地元の金凝神社には古代期の天皇である第2代綏靖天皇が祀られています。

比較的最近の鞠智城に至っても西暦600年台以前と推測されますから、藤原則隆の時代(西暦900年台)からみればいずれも数百年前の話であり、それまで同地を治めていた統治体が全くなかったとはちょっと考えられません。

ですから、私は菊池氏とは古代からそこを治めていた土着の一族であると予想するのです。そして、後に藤原の末裔と名乗ることが許され、南朝の懐良親王が身を寄せたところを考慮すると、おそらく中央政権にも知れた土地の名士、あるいは古代国の盟主であったのではないかと考えられるのです。

■菊池氏の出自を巡る仮説

菊池氏の出自については誰が言い出したのかよく分かりませんが、有名な仮説があるのでここではそれを紹介します。

 『三国志』の中のいわゆる『魏志倭人伝』と呼ばれている書の中に、狗古智卑狗という人物が登場します。狗古智卑狗は菊池彦ではないかという説が以前からありました。この事をもう少し詳しく考えて生きたいと思います。

 『魏志倭人伝』は、三世紀中頃の日本の事を書いた二千文字前後の文章ですが、解釈の方法は何通りにも及び、長年に渡って論争が続いているのですが今だ結論は出ていません。結論が出ない一因として、情報の不正確さの問題があります。二千文字前後と述べたのもその理由からです。その原因の一つとしては、原本がなく転記された物をもとにしているからなのですが、大方の話の流れは正しいと思われます。間違いや不正確な小さな事を論争するより、正しいと思われる情報の精度を高めていく事の方が重要だと思われます。

 『魏志倭人伝』には、女王国(邪馬台国)の連合の国々(三〇カ国)と狗奴国が長年に渡って戦争を続けてきた事が書かれています。女王(卑弥呼)は狗奴国との争いを有利にする為に魏に使者を送り、応援を求めましたが、魏の使者が日本に来た時には卑弥呼は死んでいました。卑弥呼が死んで国が乱れた後、台与(壱与)が新たな女王となり、魏に朝貢したと書かれています。狗奴国との争いがいつまで続き、どう結着したのかは書かれていません。

 狗奴国は女王国の南にあり、王がいて、官に狗古智卑狗がいたと書かれています。魏の使者は、当時の日本人に名前を聞いて、同じ発音をする漢字を当てはめていったのだと思われます。

 漢和辞典で狗古智の読み方を調べてみると、狗は漢音でコウ、呉音でク、古は漢音でコ、呉音でク、智は漢音も呉音もチと呼びます。そうです、呉音で続けて読むとククチとなるのです。しかし、ここで問題が一つあります。同じ発音の文字をなぜ二種類も使用したのでしょうか。不弥国の所に登場する官の名称は弥弥と連続して同じ文字を使用しています。同じ発音を表すだけならば、狗狗もしくは古古で良かったのではないでしょうか。そう考えるとクコと読むのが自然なのですが、この時代の中国の人が漢音と呉音をどう使い分けしていたのかを調べる必要があると思います。

 卑狗については、対馬国や一支国の官の名称の所にも登場しており、恐らく当時の日本人が使用していた尊称の彦にあたると思われます。彦のつく名は『記紀』の中に非常に多く登場します。『古事記』では、比古、昆古、日子、彦と書き、女性の神様は比売と書きます。ニニギの時には、名前の前に日高日子と続けて使用されています。「日本書紀」では一貫して彦と媛の文字を使用しています。

 『魏志倭人伝』と『記紀』の間には接点はないとされていますが、卑狗と彦が同じ事を意味していたならば面白いことだと思います。話をまとめますと、邪馬台国の南に狗奴国があり、邪馬台国と対立していた。狗奴国には王がいて、その下に狗古智卑狗という官がいた。狗古智卑狗の読み方は、クコチヒクと思われる。クコチはククチ=久々知=鞠智=菊池という人物の事で、卑狗は彦ではないかという推論が成り立つという事です。

 狗古智卑狗の事を菊池彦だと考える読は、邪馬台国九州説の方に多く、早稲田大学の水野祐先生の説などが有名です。しかし、邪馬台国畿内説だとしても狗古智卑狗の事を菊池彦と考えてもおかしくないと思います。

引用元:渡来人研究会 菊池秀夫氏の論文から https://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/r-kukuchi1.htm

この論文の著者は断定こそしてませんが、魏志倭人伝に記述されている狗奴国の官僚「狗古智卑狗」の発音から、それが菊池氏のルーツではないかと推測しています。

そして、魏志倭人伝の該当部分には次の様に書かれています。

原文:
 其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

読み下し:
 その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至るは、万二千余里なり。

訳:
 その(女王国の)南に狗奴(コウド、コウドゥ)国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗(コウコチヒコウ)がある。女王には属していない。帯方郡から女王国に至るには、万二千余里である。

引用元:東亜古代史研究所 塚田敬章氏のページより https://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

あくまでも古語の発音に頼った推論なので、これだけでは何とも言えないのですが、少なくとも、藤原則隆を起源とする菊池一族の説よりは説得力があるのではないかと私は考えます。

そうなると、菊池秀夫氏が述べるように邪馬台国九州説が俄然有力となってくるのですが、まだ記事にしてないものの、魏志倭人伝を古代の尺度で厳密に読むとそこが九州の阿蘇周辺、宮崎県から大分県の辺りに該当することで私も調べがついています。

そして、女王卑弥呼の正体を追った過去記事「ダリフラのプリンセスプリンセス」では、卑弥呼とは名前を変えられた神武天皇の双子の皇后、タタラヒメとイスズヒメの祭祀を受け持つ側の皇后ではないかとも予想しています。

また、神武天皇の移動伝承は何故だか福岡県の筑豊地方に集中しており、ここから神武天皇は九州で即位したのではないかという九州王朝説を私は有力視しているのですが、女王国(神武祭祀皇后の関係国)に神武天皇の支配地域である福岡まで含めると想定すれば、その南に位置するという狗奴国が現在の菊池市あってもそれほどおかしくはないのです。

如何せん、物証が絶対的に不足しているので断定はできませんが、邪馬台国が神武国であったとすれば、邪馬台国九州説及び九州王朝説の両方で辻褄が合ってくるのです。そしてその仮説をより鮮明にするのが狗古智卑狗の存在なのです。

かつて神武王朝と敵対していた狗奴国の末裔が、南北朝に割れた大和朝廷の南朝側と手を結んだ。この辺りに懐良親王を菊池に送り込んだ南朝後醍醐天皇の意図があったのではないかと思わず想像を巡らせてしまうのです。


聳え立つ不動の岩の守り手は今も眠らず湖(うみ)を見守る
管理人 日月土

菊池盆地に残るユダヤの痕跡

これまで、「菊池盆地と古代」・「菊池盆地の大遺跡と鉄」と、6月に訪れた熊本県の菊池盆地内の史跡について現地調査レポートを紹介してきました。

今回もその続きになりますが、単なる歴史探訪記で終わってもつまらないので、今回は、現地で見つけた史跡について、極めて個人的興味から気になったもの、面白そうなものを特に取り上げてみたいと思います。

始めにお断りしておきますが、ここで述べられていることに学術的な裏付けはほぼないばかりか、かなり主観的な思い込みも含まれていますのでご注意ください。

■高橋八幡神社:鞠智城との中継点か?

最初に紹介するのは、山鹿市鹿本町高橋にある「高橋八幡神社」です。八幡神社なんて全国どこにでもあると思われるかもしれませんが、この神社には古代史ファンが表現するところの「ユダヤ」的要素が多分に見られるのです。

画像1:神社内から鳥居の外側を見る

いきなり神社の外の風景を見てもらったのは、神社が置かれた土地の地形についてイメージを持って頂きたいからです。

写真を見ればお分かりになるように、鳥居に向かう道路は東南に向けて少し下っており、その先の少し低くなった土地に畑と水田が広がっています。更にその先に菊池川の支流である上内田川が流れているのですが、ここから、神社が川面よりも数メートル高い所にあるのが分ります。

こんな風景は珍しくないかもしれませんが、ここで「菊池盆地と古代」で書いたように、上の写真で畑として写っている低い土地は、古代期に存在したと言われている巨大湖「茂賀の浦」の水面下であった可能性が認められるのです。

神社の由緒によると「1191年に宇佐八幡宮の分霊を勧請した」のが神社の始まりとありますが、この地形を見て最初に想像されるのは

 この神社は元々船着き場だったのではないか

という点なのです。もちろん、茂賀の浦がまだ水を湛えた頃の話です。

現在は海岸線の位置がずい分と後退したこと、また干拓などで耕作地を広げたことにより、今では内陸の神社と思われている多くの神社が実は古代期、遅くは中世期位までは海辺の神社、すなわち人の集まる船着き場や見張り台として公的な機能を有していたと考えられます。

神社に灯篭があるのも、夜の参道を照らす灯りと言うより、当初は沖合の船に船着き場を知らす灯台の役割があったとも考えられるのです。

この点を考慮すると、高橋八幡神社は神社として今の形態を取る前は、茂賀の浦の船着き場であったと同時に、人が集まることから湖上の安全航行を祈願する場所であったとも予想されるのです。

この高橋八幡神社の鎮座する小高い丘は、地図上でその位置を確認すると次の様になります。

画像2:高橋八幡神社と鞠智城跡
両者は茂賀の浦を挟んで互いに対岸に位置する

画像2を見ると、高橋八幡神社は鞠智城から茂賀の浦の入り江を船で西に渡る最短地点にあり、鞠智城が西暦600年代後半位からそこにあったと考えられているので、やはりここが鞠智城と西の陸路を結ぶ船の接岸地点であったと見なすのが適当なのではないかと私は予想します。

■高橋八幡神社に見るユダヤの痕跡

さて、この高橋八幡神社なのですが、一部の歴史ファンの間では古代ユダヤと何か関係あるのではないかと注目されている神社なのです。それは、由緒書き云々やそこに祀られている祭神とは全く関係なく、賽銭箱の正面に描かれた次の神紋から窺えるのです。

画像3:高橋八幡神社の神紋

この神紋は国内でも非常に珍しく、円天角地十字剣紋または十字剣紋と呼ばれているそうですが、これを旧約聖書に登場するモーゼが掲げた紋章であると解釈し、古代日本とユダヤの繋がりを示すものであると考える方もいらっしゃるようです。

海外サイトでモーゼの紋章について書かれているものをネット検索してみましたが、私が調べた限りではこの神紋に近いものは見つかりませんでした。むしろ、中世のテンプル騎士団が使っていた十字紋章の方がそれに近いと思えるのです。

画像4:テンプル騎士団の紋章

今回の調査では、たまたま外出するところの宮司さんにお会いできたので、急いでいるところをたいへん申し訳なかったのですが、この神紋の言われについて尋ねることができました。その答はほぼ予想していた通りだったのですが、

 ”実はよく分からないのです”

というものでした。

この神社には、神紋の他にもう一つユダヤ的要素を示す特徴があります。それが次に掲げる画像5の写真です

画像5:ユダヤブルーに塗られた壁

屋根と庇の間の外壁が緑に近い青、青緑とでも呼ぶべき色に塗られていますが、私や同じく古代史に興味を抱いている仲間の間では、この色のことを勝手に「ユダヤブルー」と呼んでいます。

それというのも、古代ユダヤとの繋がりを感じる日本国内の史跡には何故かこの色が多用されているのをこれまで多く見て来ているからなのです。そして、この「青」という色は旧約聖書の中で次の様に書かれているのです。

また、エフォドと共に着る上着を青一色の布で作りなさい。

出エジプト記 第28章31節

旧約聖書の中では何も青色に限らず、他の色の記述もあるのですが、この一節は司祭の服装に関する規定の中に登場するもので、ユダヤ社会においては青色がとりわけ神聖な色として取り扱われていることが、ここから窺えるのです。

実際にそのユダヤ的思想は現代のイスラエルの国旗の色に現れています。

画像6:ご存知イスラエル国旗

中心は古代ユダヤ王ダビデの紋章、そして上下の青色の帯はパレスチナの空の色、あるいは聖なる青色のタリート(肩掛け)を表していると言われています。とにかくこの国は青色を極めて好む国だと言うことはできそうです。

■本当にユダヤ起源なのか?

私たち日本人は、十字形の物を見ると直ぐにキリスト教の十字架を連想し、そこから直ぐに西欧的なものとの繋がりを感じてしまうようです。もちろん、現代社会ではそれが自然な感性なのでしょうが、実は十字形もダビデの星(六芒星)も古代陰陽道の思想で説明可能なのです。

高橋八幡神社の神紋については、各パーツに分けると個々について陰陽道的に次の様に説明することができます。

画像7:陰陽道における火水(ひみつ)の原理

このように、この神紋を解釈するに当たって必ずしも西欧的ユダヤ思想に依る必要もないのですが、別の捉え方をすると

 古代陰陽道とユダヤに見られる共通性はどうしてなのか?

という新たな疑問が生じるのです。

日猶同祖論は、一方的に大陸からユダヤ氏族が日本に訪れたことを前提として論じられますが、シンボルに見られるこの奇妙な共通性はユダヤ思想由来と断じてよいのか私は大いに疑問に感じます。

何故なら、陰陽道的解釈の方がはるかに原理的解釈において緻密であり、文化伝来の方向性を考慮するならば、原理解釈として劣化が見られるユダヤ的解釈(カバラ)を陰陽道の起源と考えるのは無理を感じるからです。

もしかしたらユダヤ思想とは日本を起源としているのではないのか?私はその可能性も残しておくべきだと思うのです。


  * * *

今回は熊本県山鹿市の高橋八幡神社に見られるユダヤの痕跡についてレポートしましたが、それを言うならば、鞠智城に大量に入植してきただろう百済人とユダヤとの関係、そして魏志倭人伝に登場する狗奴国王クコチヒク(菊池彦?)とユダヤの関係も無視できないトピックとなってきます。

何より、この地に入り込んだ古代祭祀一族(呪術者一族)である日置氏とユダヤの関係も精査していかなければならないのです。



青の神出ずるこの時何をか語らん
管理人 日月土

菊池盆地の大遺跡と鉄

今回も、前回記事「菊池盆地と古代」の続きとして、先月6月に訪れた熊本県北部の菊池川流域における現地調査についてご紹介したいと思います。

いわゆる当地の遺跡スポットを訪ねたのですが、遺跡そのものの学術的な説明は、浅学な私などよりも書籍や専門サイトの方が圧倒的に詳しいので、ここでの記述は大幅に省略させていただきます。

今回は、当地の雰囲気をお伝えすることで、読者の皆様が現地を訪れ、ご自身の目で直にこの歴史的に重要な場所を見てみたいと関心を持っていただくことを一番の目的としています。


■多様な出土品と鉄器-方保田東原遺跡

調査2日目、私はまず熊本県山鹿市にある方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)へと向かいました。弥生時代後期から古墳時代後期の遺跡と言われ、その出土品の種類と数量は国内でも屈指の規模です。

画像1:方保田東原遺跡と地形(Google)
菊池川流域の台地の上にある

実はこの遺跡、これまでに数十回の発掘調査が行われてきたとされていますが、発掘されたのは土地面積全体の5~6%でしかなく、それにも拘わらず全国屈指と言われる出土品が見つかっているのです。

画像2:方保田東原遺跡の案内板
画像3:方保田東原遺跡の全景

現在でも民家や畑が周囲に残り、生活者もいらっしゃるため、道路工事など地面を掘る際に少しずつ調査が進められているようなのですが、この10年間は殆ど進展がないようです。

全部とは言わないまでも、その半分でも調査が進めば、弥生後期の生活や文化がより鮮明に見えてくるのは間違いないと考えられるのですが、発掘予算も含め如何せんそのような事情があるので残念で致し方ないところです。

この遺跡の敷地内には、山鹿市営の「山鹿市出土文化財管理センター」があり、ちょうど開館していたので、そちらに立ち寄らせいただきました。

画像4:山鹿市出土文化財管理センター

現在、主な出土品の展示は山鹿市立博物館で行っているようで、こちらでは修復作業中のものが一部見られるだけなのですが、学芸員の方に発掘当時の様子や、出土品の整理状況などを詳しくご説明いただき、たいへん勉強になったことをお礼と共にここに書き添えておきます。

ここの出土品中で、最も特徴的かつ良く知られているのは、手持ちのついた「ジョッキ型土器」かもしれません。この現代陶器と比べてもそん色のない土器を見て、私の中で、これまでの弥生土器のイメージが大きく変わったのは間違いありません。

画像5:ジョッキ型土器

もちろん、他にも色々あったのですが、そちらについては山鹿市のホームページに写真が掲載されているのでそちらをご覧いただきたいと思います。

画像6:山鹿市ホームページから(鉄器)

こちらの出土品の中で私が一番興味を覚えたのは画像6でも示した鉄器です。と言うのも、古代において鉄の存在と言うのは文明の発展おいて大きな影響力を持っていたと考えられるからです。

そもそも、中世九州において菊池一族が強大な力を得たのも、菊池川から採れる砂鉄及びそこから鋳造される刀剣類の生産によると言われています。日本刀の名刀、同田貫(どうたぬき)も菊池が発祥であることは良く知られています。

また、前回記事でも触れた鞠智城と百済人の関係から考察すると、当時の先端製鉄技術を有した伽耶人たちが、白村江の戦乱を逃れるため百済人と共にこの地に入り、製鉄技術をここに残していったのではないかと、ついつい想像が膨らむのです。

そして、現在の菊池盆地が弥生・古墳時代までは茂賀の浦という湖水だったことを考え合せれば、その湖畔には当然のように葦が茂っていたはずで、鉄分を多く含む湖水の水草の根元には、高師小僧(たかしこぞう)という、褐鉄鉱(かってっこう)の塊が大量に沈着していたとも考えられるのです。

つまり、弥生時代より前からこの地で鉄が活用されていた可能性すら窺われるのです。

これまで見つかった鉄器の数量について、学芸員さんから次の数字を教えて頂きました

画像7:現在確認されている鉄器の数

遺跡の発掘はまだ数%しか進んでいないのに、既にこれだけの鉄器が確認されています。いったいこの土地と鉄はどのように結びついているのか、早い発掘作業が待ち望まれます。

■方保田の日置金凝神社

方保田東原遺跡のすぐ近くに日置金凝神社(へきかなこりじんじゃ)という神社があります。その名前が示す通り「金が凝り固まる」と、何か金属に関係する神社であろうとすぐに思い付くのですが、それ加えて気になるのが「日置」という、日本書紀にも記載されている「日置部」(ひおきべ)という官職名あるいは世襲一族の名がそこに冠されていることです。

この名前の登場で更に古代製鉄産業と同地の関連性が深まってくるのですが、それについては次回以降に改めて取り上げたいと思います。

画像8:方保田の日置金凝神社
画像9:日置金凝神社由緒書き

これまでの話と全く関係なくて恐縮なのですが、実はこの神社の調査を始めた時から自衛隊ヘリによる上空からの威嚇監視行動が始まったのです。


青草茂る菊池川のほとりにて
管理人 日月土

菊池盆地と古代

今月初旬、熊本県北部へ調査へと向かいました。同地への調査旅行は、2年前の11月に熊本県北部の山鹿市(やまがし)及び和水町(なごみまち)に出向いた時以来です。

 関連記事:トンカラリン-熊本調査報告 

今回の調査ではテーマを設定し、改めて同地を訪ねることにしました。それは、「菊池川流域の遺跡を訪ねる」というものです。

改めて説明するまでもなく、古代の人々の生活や社会活動は土地の自然環境に大きく左右されていたと考えられ、その当時の気候や地形がどうであったかを見極めるのが非常に大切になってきます。

これまでも、縄文海進時の海岸線を推測したり、今に残されている地名などからなるべく古代の地形を頭の中で復元した上で当時を推し量るように気を付けていたつもりです。

■菊池川流域は古代湖だった?

かつて博多と熊本の間を国道3号線を使って良く行き来していたのですが、山鹿・菊池付近を通る度いつも気になっていたことがあります。それは、

 山鹿・菊池一帯に広く平野が広がっている

というものです。

海続きの土地に平野が広がるのは珍しい事ではありませんが、熊本から福岡方面に向かう際、熊本市の北部にある丘陵地帯を走り、植木付近の小山の間を抜けると、いきなりこの平野が目の前に広がるので、何でこんな開けた空間が内地の高台にあるのか、以前から不思議に感じていたのです。

菊池盆地、あるいは山鹿盆地とも言うらしいのですが、その地形の全容は国土地理院の地形図からもはっきりと窺えます。

画像1:菊池盆地 起伏が殆どない

盆地の標高は26m程度でそれほど高いとは言えず、台地の上にこれだけの盆地が広がっていると言うのも何か不思議な感じがします。

この盆地の中を菊池川が東西に走っているのですが、その流域の高台には方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡という、全国的に知られた弥生時代の大集落跡があります。また、菊池寄りの川の北側の山裾には、続日本紀に記述された鞠智城(きくちじょう)と推定される、600年代末頃の築城跡が見つかっており、現在は建物の一部が復元され、その独特の容姿を見せています。

さて、この高台の上に現れた平野の成り立ちについては、Wikipediaの「菊池盆地」の項に非常に興味深いことが書かれています。

約9万年前から弥生時代頃まで「茂賀の浦」(もがのうら)と呼ばれるサロマ湖に匹敵する巨大湖があったが、そこが干上がり肥沃な盆地となったといわれる。11世紀初頭になってやっと豪族が土着し、菊池氏を名乗り、有力化して中世に活躍した。

URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E9%B9%BF%E7%9B%86%E5%9C%B0

要するに、弥生時代(西暦200年代)までこの盆地が湖水の下にあったと言うのですが、それならば、見渡す限り一様に開けたこの土地の地形にも合点が行きます。方保田東原遺跡の大集落に暮らした古代人も、おそらく当時は湖畔の住民であったのでしょう。

問題なのは、どうして湖水が忽然と消えて無くなってしまったのかなのですが、一般には自然に水が引き始めたというのが定説の様です。しかし、歴史アドバイザーのG氏は次の様に推測します。

茂賀の浦は土木によって水が抜かれたと考えられます。水田などの耕作地を作る為、古代期にはこういう水抜き工事が全国で行われていた形跡があるのです。

湖岸の土が薄い箇所を反対側から少しずつ削っていくと、ある時点で湖水の水圧で湖岸が自然に決壊し、そこから一気に湖水が流れ出す。

現在の山鹿市から玉名市海岸までの菊池川下流は、茂賀の浦から流れ出た水が谷を下って作り出したものと考えられます。

by G氏

もしも、G氏が語るように人工的に水が抜かれたとするなら、これは大土木工事であり、弥生時代から古墳時代にかけてのこの頃には、このような高度な土木技術が既に存在してたとも考えられます。

そして、古代期における湖水の存在抜きには、菊池盆地周辺の本当の古代史も見えてこないのだと、しみじみと実感したのです。しかしながら、現地の博物館や資料館の学芸員さんにこの茂賀の浦について尋ねてみたのですが、残念ながらその存在をご存知だった方はいませんでした。

次に当時の湖水を抜いた場所だと考えられる、岩野川と菊池川の合流地点である山鹿市の鍋田に向かい現地を視察してきました(画像1の赤線部分)。ここは、以前お知らせしたチブサン古墳にも近いところです。もしかしたら、この古墳が造営された当時にもまだ湖水はあったかもしれません。ならば、ここに眠る王も湖畔の住民だった可能性があります。

 関連記事:チブサン古墳とトンカラリンの小人 

画像2:山鹿市鍋田 茂賀の浦の湖水を抜いた場所か?

河川整備された現在の様子から当時の地形を想像するのは難しいのですが、玉名方面に向かって緩やかに傾斜する谷間の地を、水抜きポイントに選んだ古代人技術者の頭にどのような情報が詰め込まれていたのか、それを想像するだけで当時の人々について思いが巡ります。

■鞠智城:これが大和朝廷の城なのか?

さて、以上までは菊池盆地の全体感をお伝えしたものですが、ここから私が訪れた菊池川周辺の遺跡について述べていきたいと思います。多くの場所を見てきたので、まずは当地の代表的な遺跡、鞠智城を見てみましょう。

画像3:再現された鞠智城

ちょっと驚くのは、このお城、どう見ても日本の建築のようには見えません。そもそも鞠智城とはどういうものなのか、「鞠智城と古代社会」という熊本県教育委員会から出されている論文があったので、そこから該当部分を抜粋してみます。

それでは、鞠智城についての基本的な史料について確認しておきたい。鞠智城についての初見記事は、『続日本紀』文武天皇二年 (六九八)五月条にみえる、大宰府によって大野、基肄の二城とともに繕治されたという記事である。

この記事は、鞠智城のいわば繕治記事にあたるもので、直接鞠智城の築城を示す記事ではない。しかしながら、七世紀後半に東アジアの情勢が緊迫するなか、鞠智城はそれに対応する形で築城されたものと考えられる。

当該期、日本は白村江の敗戦により火急なる対外防衛整備の必要性が求められた時期であった。すなわち、鞠智城も他の古代山城と同様に、外的防衛の意識をもって築城された城であったと考えられる。

このように、築城当時の鞠智城は、その目的のひとつに対半島情勢に対する防衛意識があったと考えられる。しかしながら、先行研究でもすでに言及されているように、次に再び鞠智城が対外防御の観点から注目されるようになるのは、九世紀に至ってのことである。

「 鞠智城と古代社会 」 本県教育委員会

お城というくらいですから、国土防衛の意図があって造られたのではないかと最初に想像してしまうのですが、文中にあるように、続日本紀にある記述は「繕治」(ぜんち)、即ち「補修」の対象になったということだけで、記載の同年に同城が建設されたことを意味していません。

推測として、663年に白村江の戦いがあったとされる中で、おそらく唐・新羅軍の九州への進撃を避けるために、敗退の直後くらいから対外防衛拠点としてこの城を築いたのだろうという推測が一般的には成り立ちます。

しかしです、画像1を見れば分かるように、鞠智城はあまりにも内陸に入り過ぎていて、大野城や基肄(きい)城のように明らかに博多湾からの上陸を阻止するために築かれた朝鮮式山城とは立地があまりにも異なります。

それにも増して画像3の示す建築様式は朝鮮式であり、一般的に言われる大和朝廷が造営したものと考えるのは少々無理があるように見えます。また、この見張り台のような建築物の周囲には多くの倉庫と思われる、高床式の建物が築かれていたようです。

画像4:復元された高床式の倉庫

上記論文を読むと鞠智城の建設目があくまでも「対外防衛拠点」、あるいはそれに準拠した目的に拘っているようなのですが、G氏はこの鞠智城に関して次の様な仮説を立てています。

白村江の戦の後、一般人を含め多くの百済人が日本に避難してきたはずです。国内をあまりうろうろされても困るので、当然、彼らをまとめて収容する施設が必要となり、その目的として鞠智城が建設されたのではないでしょうか?今風に言うなら難民キャンプということになります。

そして、なぜ内陸である菊池の山裾にキャンプを据えたかと言えば、当時はまだ茂賀の浦が残っており、山と湖水に阻まれて百済難民が自由に行き来しにくかったのもこの地が選ばれた理由だったのでしょう。

ここには百済難民のコミュニティが作られ、その中で朝鮮式の建築物が造営されていったと考えられるのです。

by G氏

ことの真偽はこれでけでは何とも判断できませんが、茂賀の浦という消えた湖の存在を考察に加えると、このような新たな考えも生まれるのだなと、私自身、この説には大いに感心してしまったのです。


* * *

今回は菊池川流域調査報告の初回と言うことでこの辺で筆を置きますが、次回以降も同じく菊池川に関わる報告をお伝えしたいと思います。この報告の中で、現地で遭遇したハプニング、陸上自衛隊ヘリに上空からしつこく追跡された件などもお伝えしたいと思います。


から国の民すまわれし丘の上水面に霞む遠きおや国
管理人 日月土